んだから、仕方がないといえばそれまでだけれどもね……」
姉のいう事は女だけに随分曲りくねっていた。なかなか容易な事で目的地へ達しそうになかったけれども、その主意は健三によく解った。つまり月々遣る小遣《こづかい》をもう少し増《ま》してくれというのだろうと思った。今でさえそれをよく夫から借りられてしまうという話を耳にしている彼には、この請求が憐《あわ》れでもあり、また腹立たしくもあった。
「どうか姉さんを助けると思ってね。姉さんだってこの身体じゃどうせ長い事もあるまいから」
これが姉の口から出た最後の言葉であった。健三はそれでも厭《いや》だとはいいかねた。
七
彼はこれから宅《うち》へ帰って今夜中に片付けなければならない明日《あした》の仕事を有《も》っていた。時間の価値というものを少しも認めないこの姉と対坐《たいざ》して、何時《いつ》までも、べんべんと喋舌《しゃべ》っているのは、彼にとって多少の苦痛に違なかった。彼は好加減《いいかげん》に帰ろうとした。そうして帰る間際になってやっと帽子を被《かぶ》らない男の事をいい出した。
「実はこの間島田に会ったんですがね」
「へえどこで」
姉は吃驚《びっくり》したような声を出した。姉は無教育な東京ものによく見るわざとらしい仰山な表情をしたがる女であった。
「太田《おおた》の原《はら》の傍《そば》です」
「じゃ御前さんのじき近所じゃないか。どうしたい、何か言葉でも掛けたかい」
「掛けるって、別に言葉の掛けようもないんだから」
「そうさね。健ちゃんの方から何とかいわなきゃ、向《むこう》で口なんぞ利《き》けた義理でもないんだから」
姉の言葉は出来るだけ健三の意を迎えるような調子であった。彼女は健三に「どんな服装《なり》をしていたい」と訊《き》き足した後で、「じゃやッぱり楽でもないんだね」といった。其所《そこ》には多少の同情も籠《こも》っているように見えた。しかし男の昔を話し出した時にはさもさも悪《にく》らしそうな語気を用い始めた。
「なんぼ因業《いんごう》だって、あんな因業な人ったらありゃしないよ。今日が期限だから、是が非でも取って行くって、いくら言訳をいっても、坐《すわ》り込んで動《いご》かないんだもの。しまいにこっちも腹が立ったから、御気の毒さま、御金はありませんが、品物で好ければ、御鍋《おなべ》でも御釜《おかま》でも持ってって下さいっていったらね、じゃ釜を持ってくっていうんだよ。あきれるじゃないか」
「釜を持って行くったって、重くってとても持てやしないでしょう」
「ところがあの業突張《ごうつくばり》の事だから、どんな事をして持ってかないとも限らないのさ。そらその日の御飯をあたしに炊《た》かせまいと思って、そういう意地の悪い事をする人なんだからね。どうせ先へ寄って好《い》い事あないはずだあね」
健三の耳にはこの話がただの滑稽《こっけい》としては聞こえなかった。その人と姉との間に起ったこんな交渉のなかに引絡《ひっから》まっている古い自分の影法師は、彼に取って可笑《おか》しいというよりもむしろ悲しいものであった。
「私《わたし》ゃ島田に二度会ったんですよ、姉さん。これから先また何時会うか分らないんだ」
「いいから知らん顔をして御出でよ。何度会ったって構わないじゃないか」
「しかしわざわざ彼所《あすこ》いらを通って、私の宅《うち》でも探しているんだか、また用があって通りがかりに偶然出ッくわしたんだか、それが分らないんでね」
この疑問は姉にも解けなかった。彼女はただ健三に都合の好さそうな言葉を無意味に使った。それが健三には空御世辞《からおせじ》のごとく響いた。
「こちらへはその後まるで来ないんですか」
「ああこの二、三年はまるっきり来ないよ」
「その前は?」
「その前はね、ちょくちょくってほどでもないが、それでも時々は来たのさ。それがまた可笑しいんだよ。来ると何時でも十一時頃でね。鰻飯《うなぎめし》かなにか食べさせないと決して帰らないんだからね。三度の御まんまを一《ひと》かたけでも好《い》いから他《ひと》の家《うち》で食べようっていうのがつまりあの人の腹なんだよ。そのくせ服装《なり》なんかかなりなものを着ているんだがね。……」
姉のいう事は脱線しがちであったけれども、それを聴いている健三には、やはり金銭上の問題で、自分が東京を去ったあとも、なお多少の交際が二人の間に持続されていたのだという見当はついた。しかしそれ以上何も知る事は出来なかった。目下の島田については全く分らなかった。
八
「島田は今でも元の所に住んでいるんだろうか」
こんな簡単な質問さえ姉には判然《はっきり》答えられなかった。健三は少し的《あて》が外れた。けれども自分の方から進んで島田の現在の居所《いどころ》を突き留めようとまでは思っていなかったので、大した失望も感じなかった。彼はこの場合まだそれほどの手数《てかず》を尽す必要がないと信じていた。たとい尽すにしたところで、一種の好奇心を満足するに過ぎないとも考えていた。その上今の彼はこういう好奇心を軽蔑《けいべつ》しなければならなかった。彼の時間はそんな事に使用するには余りに高価すぎた。
彼はただ想像の眼で、子供の時分見たその人の家と、その家の周囲とを、心のうちに思い浮べた。
其所《そこ》には往来の片側に幅の広い大きな堀が一丁も続いていた。水の変らないその堀の中は腐った泥で不快に濁っていた。所々に蒼《あお》い色が湧《わ》いて厭《いや》な臭《におい》さえ彼の鼻を襲った。彼はその汚《きた》ならしい一廓《いっかく》を――様《さま》の御屋敷という名で覚えていた。
堀の向う側には長屋がずっと並んでいた。その長屋には一軒に一つ位の割で四角な暗い窓が開けてあった。石垣とすれすれに建てられたこの長屋がどこまでも続いているので、御屋敷のなかはまるで見えなかった。
この御屋敷と反対の側には小さな平家《ひらや》が疎《まば》らに並んでいた。古いのも新らしいのもごちゃごちゃに交《まじ》っていたその町並は無論|不揃《ぶそろ》であった。老人の歯のように所々が空いていた。その空いている所を少しばかり買って島田は彼の住居《すまい》を拵《こしら》えたのである。
健三はそれが何時出来上ったか知らなかった。しかし彼が始めてそこへ行ったのは新築後まだ間もないうちであった。四間《よま》しかない狭い家だったけれども、木口《きぐち》などはかなり吟味してあるらしく子供の眼にも見えた。間取にも工夫があった。六畳の座敷は東向で、松葉を敷き詰めた狭い庭に、大き過ぎるほど立派な御影《みかげ》の石燈籠《いしどうろう》が据えてあった。
綺麗好《きれいず》きな島田は、自分で尻端折《しりはしお》りをして、絶えず濡雑巾《ぬれぞうきん》を縁側や柱へ掛けた。それから跣足《はだし》になって、南向の居間の前栽《せんざい》へ出て、草毟《くさむし》りをした。あるときは鍬《くわ》を使って、門口《かどぐち》の泥溝《どぶ》も浚《さら》った。その泥溝には長さ四尺ばかりの木の橋が懸っていた。
島田はまたこの住居《すまい》以外に粗末な貸家を一軒建てた。そうして双方の家の間を通り抜けて裏へ出られるように三尺ほどの路《みち》を付けた。裏は野とも畠《はた》とも片のつかない湿地であった。草を踏むとじくじく水が出た。一番|凹《へこ》んだ所などはしょっちゅう浅い池のようになっていた。島田は追々其所へも小さな貸家を建てるつもりでいるらしかった。しかしその企ては何時までも実現されなかった。冬になると鴨《かも》が下《お》りるから、今度は一つ捕ってやろうなどといっていた。……
健三はこういう昔の記憶をそれからそれへと繰り返した。今其所へ行って見たら定めし驚ろくほど変っているだろうと思いながら、彼はなお二十年前の光景を今日《こんにち》の事のように考えた。
「ことによると、良人《うち》では年始状位まだ出してるかも知れないよ」
健三の帰る時、姉はこんな事をいって、暗《あん》に比田《ひだ》の戻るまで話して行けと勧めたが、彼にはそれほどの必要もなかった。
彼はその日|無沙汰《ぶさた》見舞かたがた市ヶ谷《いちがや》の薬王寺《やくおうじ》前にいる兄の宅《うち》へも寄って、島田の事を訊《き》いて見ようかと考えていたが、時間の遅くなったのと、どうせ訊いたって仕方がないという気が次第に強くなったのとで、それなり駒込《こまごめ》へ帰った。その晩はまた翌日《あくるひ》の仕事に忙殺《ぼうさい》されなければならなかった。そうして島田の事はまるで忘れてしまった。
九
彼はまた平生《へいぜい》の我に帰った。活力の大部分を挙げて自分の職業に使う事が出来た。彼の時間は静かに流れた。しかしその静かなうちには始終いらいらするものがあって、絶えず彼を苦しめた。遠くから彼を眺めていなければならなかった細君は、別に手の出しようもないので、澄ましていた。それが健三には妻にあるまじき冷淡としか思えなかった。細君はまた心の中《うち》で彼と同じ非難を夫の上に投げ掛けた。夫の書斎で暮らす時間が多くなればなるほど、夫婦間の交渉は、用事以外に少なくならなければならないはずだというのが細君の方の理窟であった。
彼女は自然の勢い健三を一人書斎に遺して置いて、子供だけを相手にした。その子供たちはまた滅多に書斎へ這入《はい》らなかった。たまに這入ると、きっと何か悪戯《いたずら》をして健三に叱《しか》られた。彼は子供を叱るくせに、自分の傍《そば》へ寄り付かない彼らに対して、やはり一種の物足りない心持を抱《いだ》いていた。
一週間後の日曜が来た時、彼はまるで外出しなかった。気分を変えるため四時頃|風呂《ふろ》へ行って帰ったら、急にうっとりした好《い》い気持に襲われたので、彼は手足を畳の上へ伸ばしたまま、つい仮寐《うたたね》をした。そうして晩食《ばんめし》の時刻になって、細君から起されるまでは、首を切られた人のように何事も知らなかった。しかし起きて膳《ぜん》に向った時、彼には微《かす》かな寒気が脊筋《せすじ》を上から下へ伝わって行くような感じがあった。その後で烈《はげ》しい嚏《くさみ》が二つほど出た。傍にいる細君は黙っていた。健三も何もいわなかったが、腹の中ではこうした同情に乏しい細君に対する厭《いや》な心持を意識しつつ箸《はし》を取った。細君の方ではまた夫が何故《なぜ》自分に何もかも隔意なく話して、能働的《のうどうてき》に細君らしく振舞わせないのかと、その方をかえって不愉快に思った。
その晩彼は明らかに多少|風邪《かぜ》気味であるという事に気が付いた。用心して早く寐《ね》ようと思ったが、ついしかけた仕事に妨げられて、十二時過まで起きていた。彼の床に入る時には家内のものはもう皆な寐ていた。熱い葛湯《くずゆ》でも飲んで、発汗したい希望をもっていた健三は、やむをえずそのまま冷たい夜具の裏《うち》に潜《もぐ》り込んだ。彼は例にない寒さを感じて、寐付が大変悪かった。しかし頭脳の疲労はほどなく彼を深い眠の境に誘った。
翌日《あくるひ》眼を覚した時は存外安静であった。彼は床の中で、風邪はもう癒《なお》ったものと考えた。しかしいよいよ起きて顔を洗う段になると、何時もの冷水摩擦が退儀な位|身体《からだ》が倦怠《だる》くなってきた。勇気を鼓《こ》して食卓に着いて見たが、朝食《あさめし》は少しも旨《うま》くなかった。いつもは規定として三膳食べるところを、その日は一膳で済ました後《あと》、梅干を熱い茶の中に入れてふうふう吹いて呑《の》んだ。しかしその意味は彼自身にも解らなかった。この時も細君は健三の傍に坐って給仕をしていたが、別に何にもいわなかった。彼にはその態度がわざと冷淡に構えている技巧の如く見えて多少腹が立った。彼はことさらな咳《せき》を二度も三度もして見せた。それでも細君は依然として取り合わなかった。
健三はさっさと頭から白襯衣《ワイシャツ》を被《かぶ》って洋服に着換えたなり例刻
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