見ると双方とも、一廻りも上であった。この夫がもと四ッ谷の区役所へ勤めた縁故で、彼が其所《そこ》をやめた今日《こんにち》でも、まだ馴染《なじみ》の多い土地を離れるのが厭《いや》だといって、姉は今の勤先に不便なのも構わず、やっぱり元の古ぼけた家に住んでいるのである。
四
この姉は喘息持《ぜんそくもち》であった。年が年中ぜえぜえいっていた。それでも生れ付が非常な癇性《かんしょう》なので、よほど苦しくないと決して凝《じっ》としていなかった。何か用を拵《こしら》えて狭い家《うち》の中を始終ぐるぐる廻って歩かないと承知しなかった。その落付《おちつき》のないがさつ[#「がさつ」に傍点]な態度が健三の眼には如何《いか》にも気の毒に見えた。
姉はまた非常に饒舌《しゃべ》る事の好《すき》な女であった。そうしてその喋舌り方に少しも品位というものがなかった。彼女と対坐《たいざ》する健三はきっと苦い顔をして黙らなければならなかった。
「これが己《おれ》の姉なんだからなあ」
彼女と話をした後《あと》の健三の胸には何時でもこういう述懐が起った。
その日健三は例の如く襷《たすき》を掛けて戸棚の中を掻《か》きまわしているこの姉を見出した。
「まあ珍らしく能《よ》く来てくれたこと。さあ御敷きなさい」
姉は健三に座蒲団《ざぶとん》を勧めて縁側へ手を洗いに行った。
健三はその留守に座敷のなかを見廻わした。欄間《らんま》には彼が子供の時から見覚えのある古ぼけた額が懸っていた。その落款《らっかん》に書いてある筒井憲《つついけん》という名は、たしか旗本《はたもと》の書家か何《なに》かで、大変字が上手なんだと、十五、六の昔|此所《ここ》の主人から教えられた事を思い出した。彼はその主人をその頃は兄さん兄さんと呼んで始終遊びに行ったものである。そうして年からいえば叔父甥《おじおい》ほどの相違があるのに、二人して能く座敷の中で相撲《すもう》をとっては姉から怒《おこ》られたり、屋根へ登って無花果《いちじく》を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《も》いで食って、その皮を隣の庭へ投げたため、尻《しり》を持ち込まれたりした。主人が箱入りのコンパス[#「コンパス」に傍点]を買って遣《や》るといって彼を騙《だま》したなり何時まで経っても買ってくれなかったのを非常に恨めしく思った事もあった。姉と喧嘩《けんか》をして、もう向うから謝罪《あやま》って来ても勘忍してやらないと覚悟を極《き》めたが、いくら待っていても、姉が詫《あや》まらないので、仕方なしにこちらからのこのこ出掛けて行ったくせに、手持無沙汰《てもちぶさた》なので、向うで御這入《おはい》りというまで、黙って門口《かどぐち》に立っていた滑稽《こっけい》もあった。……
古い額を眺めた健三は、子供の時の自分に明らかな記憶の探照燈を向けた。そうしてそれほど世話になった姉夫婦に、今は大した好意を有《も》つ事が出来にくくなった自分を不快に感じた。
「近頃は身体《からだ》の具合はどうです。あんまり非道《ひど》く起る事もありませんか」
彼は自分の前に坐《すわ》った姉の顔を見ながらこう訊《たず》ねた。
「ええ有難う。御蔭さまで陽気が好《い》いもんだから、まあどうかこうか家の事だけは遣ってるんだけれども、――でもやっぱり年が年だからね。とても昔しのようにがせい[#「がせい」に傍点]に働く事は出来ないのさ。昔健ちゃんの遊《あす》びに来てくれた時分にゃ、随分|尻《しり》ッ端折《ぱしょ》りで、それこそ御釜《おかま》の御尻まで洗ったもんだが、今じゃとてもそんな元気はありゃしない。だけど御蔭様でこう遣って毎日牛乳も飲んでるし……」
健三は些少《さしょう》ながら月々いくらかの小遣を姉に遣《や》る事を忘れなかったのである。
「少し痩《や》せたようですね」
「なにこりゃ私《あたし》の持前《もちまえ》だから仕方がない。昔から肥《ふと》った事のない女なんだから。やッぱり癇《かん》が強いもんだからね。癇で肥る事が出来ないんだよ」
姉は肉のない細い腕を捲《まく》って健三の前に出して見せた。大きな落ち込んだ彼女の眼の下を薄黒い半円形の暈《かさ》が、怠《だる》そうな皮で物憂《ものう》げに染めていた。健三は黙ってそのぱさぱさした手の平を見詰めた。
「でも健ちゃんは立派になって本当に結構だ。御前さんが外国へ行く時なんか、もう二度と生きて会う事は六《む》ずかしかろうと思ってたのに、それでもよくまあ達者で帰って来られたのね。御父《おとっ》さんや御母《おっか》さんが生きて御出だったらさぞ御喜びだろう」
姉の眼にはいつか涙が溜《たま》っていた。姉は健三の子供の時分、「今に姉さんに御金が出来たら、健ちゃんに何でも好なものを買って上げるよ」と口癖《くちくせ》のようにいっていた。そうかと思うと、「こんな偏窟《へんくつ》じゃこの子はとても物にゃならない」ともいった。健三は姉の昔の言葉やら語気やらを思い浮べて、心の中で苦笑した。
五
そんな古い記憶を喚《よ》び起こすにつけても、久しく会わなかった姉の老けた様子が一層《ひとしお》健三の眼についた。
「時に姉さんはいくつでしたかね」
「もう御婆《おばあ》さんさ。取って一《いち》だもの御前さん」
姉は黄色い疎《まば》らな歯を出して笑って見せた。実際五十一とは健三にも意外であった。
「すると私《わたし》とは一廻《ひとまわり》以上違うんだね。私ゃまた精々違って十《とお》か十一だと思っていた」
「どうして一廻どころか。健ちゃんとは十六違うんだよ、姉さんは。良人《うち》が羊の三碧《さんぺき》で姉さんが四緑《しろく》なんだから。健ちゃんは慥《たし》か七赤《しちせき》だったね」
「何だか知らないが、とにかく三十六ですよ」
「繰って見て御覧、きっと七赤だから」
健三はどうして自分の星を繰るのか、それさえ知らなかった。年齢《とし》の話はそれぎりやめてしまった。
「今日は御留守なんですか」と比田《ひだ》の事を訊《き》いて見た。
「昨夕《ゆうべ》も宿直《とまり》でね。なに自分の分だけなら月に三度か四度《よど》で済むんだけれども、他《ひと》に頼まれるもんだからね。それに一晩でも余計泊りさえすればやっぱりいくらかになるだろう、それでつい他《ひと》の分まで引受ける気にもなるのさ。この頃じゃあっちへ寐《ね》るのとこっちへ帰るのと、まあ半々位なものだろう。ことによると、向《むこう》へ泊る方がかえって多いかも知れないよ」
健三は黙って障子の傍《そば》に据えてある比田の机を眺めた。硯箱《すずりばこ》や状袋《じょうぶくろ》や巻紙がきちりと行儀よく並んでいる傍に、簿記用の帳面が赤い脊皮《せがわ》をこちらへ向けて、二、三冊立て懸けてあった。それから綺麗《きれい》に光った小さい算盤《そろばん》もその下に置いてあった。
噂《うわさ》によると比田はこの頃変な女に関係をつけて、それを自分の勤め先のつい近くに囲っているという評番《ひょうばん》であった。宿直《とまり》だ宿直だといって宅《うち》へ帰らないのは、あるいはそのせいじゃなかろうかと健三には思えた。
「比田さんは近頃どうです。大分《だいぶ》年を取ったから元とは違って真面目《まじめ》になったでしょう」
「なにやッぱり相変らずさ。ありゃ一人で遊ぶために生れて来た男なんだから仕方がないよ。やれ寄席《よせ》だ、やれ芝居《しばや》だ、やれ相撲だって、御金さえありゃ年が年中飛んで歩いてるんだからね。でも奇体なもんで、年のせいだか何だか知らないが、昔に比べると、少しは優《やさ》しくなったようだよ。もとは健ちゃんも知ってる通りの始末で、随分|烈《はげ》しかったもんだがね。蹴《け》ったり、敲《たた》いたり、髪の毛を持って座敷中|引摺《ひっずり》廻したり……」
「その代り姉さんも負けてる方じゃなかったんだからな」
「なに妾《あたし》ゃ手出しなんかした事あ、ついの一度だってありゃしない」
健三は勝気な姉の昔を考え出してつい可笑《おか》しくなった。二人の立ち廻りは今姉の自白するように受身のものばかりでは決してなかった。ことに口は姉の方が比田に比べると十倍も達者だった。それにしてもこの利かぬ気の姉が、夫に騙《だま》されて、彼が宅へ帰らない以上、きっと会社へ泊っているに違いないと信じ切っているのが妙に不憫《ふびん》に思われて来た。
「久しぶりに何か奢《おご》りましょうか」と姉の顔を眺めながらいった。
「ありがと、今|御鮨《おすし》をそういったから、珍らしくもあるまいけれども、食べてって御くれ」
姉は客の顔さえ見れば、時間に関係なく、何か食わせなければ承知しない女であった。健三は仕方がないから尻《しり》を落付《おちつ》けてゆっくり腹の中に持って来た話を姉に切り出す気になった。
六
近頃の健三は頭を余計|遣《つか》い過ぎるせいか、どうも胃の具合が好くなかった。時々思い出したように運動して見ると、胸も腹もかえって重くなるだけであった。彼は要心して三度の食事以外にはなるべく物を口へ入れないように心掛ていた。それでも姉の悪強《わるじい》には敵《かな》わなかった。
「海苔巻《のりまき》なら身体《からだ》に障《さわ》りゃしないよ。折角姉さんが健ちゃんに御馳走《ごちそう》しようと思って取ったんだから、是非食べて御くれな。厭《いや》かい」
健三は仕方なしに旨《うま》くもない海苔巻を頬張《ほおば》って、好《い》い加減|烟草《タバコ》で荒らされた口のうちをもぐもぐさせた。
姉が余り饒舌《しゃべ》るので、彼は何時までも自分のいいたい事がいえなかった。訊《き》きたい問題を持っていながら、こう受身な会話ばかりしているのが、彼には段々むず痒《がゆ》くなって来た。しかし姉にはそれが一向通じないらしかった。
他《ひと》に物を食わせる事の好きなのと同時に、物を遣《や》る事の好きな彼女は、健三がこの前|賞《ほ》めた古ぼけた達磨《だるま》の掛物を彼に遣ろうかといい出した。
「あんなものあ、宅《うち》にあったって仕方がないんだから、持って御出でよ。なに比田《ひだ》だって要《い》りゃしないやね、汚ない達磨なんか」
健三は貰《もら》うとも貰わないともいわずにただ苦笑していた。すると姉は何か秘密話でもするように急に調子を低くした。
「実は健ちゃん、御前さんが帰って来たら、話そう話そうと思って、つい今日《きょう》まで黙ってたんだがね。健ちゃんも帰りたてでさぞ忙がしかろうし、それに姉さんが出掛けて行くにしたところで、御住《おすみ》さんがいちゃ、少し話し悪《にく》い事だしね。そうかって、手紙を書こうにも御存じの無筆だろう……」
姉の前置《まえおき》は長たらしくもあり、また滑稽《こっけい》でもあった。小さい時分いくら手習をさせても記憶《おぼえ》が悪くって、どんなに平易《やさ》しい字も、とうとう頭へ這入《はい》らずじまいに、五十の今日《こんにち》まで生きて来た女だと思うと、健三にはわが姉ながら気の毒でもありまたうら恥ずかしくもあった。
「それで姉さんの話ってえな、一体どんな話なんです。実は私《わたし》も今日は少し姉さんに話があって来たんだが」
「そうかいそれじゃ御前さんの方のから先へ聴くのが順だったね。何故《なぜ》早く話さなかったの」
「だって話せないんだもの」
「そんなに遠慮しないでもいいやね。姉弟《きょうだい》の間じゃないか、御前さん」
姉は自分の多弁が相手の口を塞《ふさ》いでいるのだという明白な事実には毫《ごう》も気が付いていなかった。
「まあ姉さんの方から先へ片付けましょう。何ですか、あなたの話っていうのは」
「実は健ちゃんにはまことに気の毒で、いい悪いんだけれども、あたしも段々年を取って身体は弱くなるし、それに良人《うち》があの通りの男で、自分一人さえ好けりゃ女房なんかどうなったって、己《おれ》の知った事じゃないって顔をしているんだから。――尤《もっと》も月々の取高《とりだか》が少ない上に、交際《つきあい》もある
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