とお》っていた。彼はこの老人が或日或物を持って、今より判明《はっき》りした姿で、きっと自分の前に現れてくるに違ないという予覚に支配された。その或物がまた必ず自分に不愉快なもしくは不利益な形を具えているに違ないという推測にも支配された。
 彼は退屈のうちに細いながらかなり鋭どい緊張を感じた。そのせいか、島田の自分を見る眼が、さっき擦硝子《すりガラス》の蓋《かさ》を通して油煙に燻《くす》ぶった洋燈《ランプ》の灯《ひ》を眺めていた時とは全く変っていた。
「隙《すき》があったら飛び込もう」
 落ち込んだ彼の眼は鈍いくせに明らかにこの意味を物語っていた。自然健三はそれに抵抗して身構えなければならなくなった。しかし時によると、その身構えをさらりと投げ出して、飢えたような相手の眼に、落付《おちつき》を与えて遣《や》りたくなる場合もあった。
 その時突然奥の間で細君の唸《うな》るような声がした。健三の神経はこの声に対して普通の人以上の敏感を有《も》っていた。彼はすぐ耳を峙《そば》だてた。
「誰か病気ですか」と島田が訊《き》いた。
「ええ妻《さい》が少し」
「そうですか、それはいけませんね。どこが悪いんです」
 島田はまだ細君の顔を見た事がなかった。何時どこから嫁に来た女かさえ知らないらしかった。従って彼の言葉にはただ挨拶《あいさつ》があるだけであった。健三もこの人から自分の妻に対する同情を求めようとは思っていなかった。
「近頃は時候が悪いから、能《よ》く気を付けないといけませんね」
 子供は疾《と》うに寐付《ねつ》いた後《あと》なので奥は寂《しん》としていた。下女《げじょ》は一番懸け離れた台所の傍《そば》の三畳にいるらしかった。こんな時に細君をたった一人で置くのが健三には何より苦しかった。彼は手を叩《たた》いて下女を呼んだ。
「ちょっと奥へ行って奥さんの傍に坐《すわ》っててくれ」
「へええ」
 下女は何のためだか解らないといった様子をして間の襖《ふすま》を締めた。健三はまた島田の方を向き直った。けれども彼の注意はむしろ老人を離れていた。腹の中で早く帰ってくれれば好《い》いと思うので、その腹が言葉にも態度にもありありと現れた。
 それでも島田は容易に立たなかった。話の接穂《つぎほ》がなくなって、手持|無沙汰《ぶさた》で仕方なくなった時、始めて座蒲団《ざぶとん》から滑り落ちた。
「どうも御邪魔をしました。御忙がしいところを。いずれまたその内」
 細君の病気については何事もいわなかった彼は、沓脱《くつぬぎ》へ下りてからまた健三の方を振り向いた。
「夜分なら大抵御暇ですか」
 健三は生返事をしたなり立っていた。
「実は少し御話ししたい事があるんですが」
 健三は何の御用ですかとも聞き返さなかった。老人は健三の手に持った暗い灯影《ひかげ》から、鈍い眼を光らしてまた彼を見上げた。その眼にはやっぱりどこかに隙があったら彼の懐に潜《もぐ》り込もうという人の悪い厭《いや》な色か動いていた。
「じゃ御免」
 最後に格子《こうし》を開けて外へ出た島田はこういってとうとう暗がりに消えた。健三の門には軒燈さえ点《つ》いていなかった。

     五十

 健三はすぐ奥へ来て細君の枕元に立った。
「どうかしたのか」
 細君は眼を開けて天井を見た。健三は蒲団《ふとん》の横からまたその眼を見下《みおろ》した。
 襖《ふすま》の影に置かれた洋燈《ランプ》の灯《ひ》は客間のよりも暗かった。細君の眸《ひとみ》がどこに向って注がれているのか能《よ》く分らない位暗かった。
「どうかしたのか」
 健三は同じ問をまた繰り返さなければならなかった。それでも細君は答えなかった。
 彼は結婚以来こういう現象に何度となく遭遇した。しかし彼の神経はそれに慣らされるには余りに鋭敏過ぎた。遭遇するたびに、同程度の不安を感ずるのが常であった。彼はすぐ枕元に腰を卸した。
「もうあっちへ行っても好《い》い。此所《ここ》には己《おれ》がいるから」
 ぼんやり蒲団の裾に坐《すわ》って、退屈そうに健三の様子を眺めていた下女《げじょ》は無言のまま立ち上った。そうして「御休みなさい」と敷居の所へ手を突いて御辞儀をしたなり襖を立て切った。後には赤い筋を引いた光るものが畳の上に残った。彼は眉《まゆ》を顰《ひそ》めながら下女の振り落して行った針を取り上げた。何時もなら婢《おんな》を呼び返して小言《こごと》をいって渡すところを、今の彼は黙って手に持ったまま、しばらく考えていた。彼はしまいにその針をぷつりと襖に立てた。そうしてまた細君の方へ向き直った。
 細君の眼はもう天井を離れていた。しかし判然《はっきり》どこを見ているとも思えなかった。黒い大きな瞳子《ひとみ》には生きた光があった。けれども生きた働きが欠けていた。彼女は魂と直接《じか》に繋《つな》がっていないような眼を一杯に開けて、漫然と瞳孔《ひとみ》の向いた見当を眺めていた。
「おい」
 健三は細君の肩を揺《ゆす》った。細君は返事をせずにただ首だけをそろりと動かして心持健三の方に顔を向けた。けれども其所《そこ》に夫の存在を認める何らの輝きもなかった。
「おい、己だよ。分るかい」
 こういう場合に彼の何時でも用いる陳腐で簡略でしかもぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]なこの言葉のうちには、他《ひと》に知れないで自分にばかり解っている憐憫《れんびん》と苦痛と悲哀があった。それから跪《ひざ》まずいて天に祷《いの》る時の誠と願もあった。
「どうぞ口を利いてくれ。後生だから己の顔を見てくれ」
 彼は心のうちでこういって細君に頼むのである。しかしその痛切な頼みを決して口へ出していおうとはしなかった。感傷的《センチメンタル》な気分に支配されやすいくせに、彼は決して外表的《デモンストラチーヴ》になれない男であった。
 細君の眼は突然|平生《へいぜい》の我に帰った。そうして夢から覚めた人のように健三を見た。
「貴夫《あなた》?」
 彼女の声は細くかつ長かった。彼女は微笑しかけた。しかしまだ緊張している健三の顔を認めた時、彼女はその笑を止めた。
「あの人はもう帰ったの」
「うん」
 二人はしばらく黙っていた。細君はまた頸《くび》を曲げて、傍《そば》に寐《ね》ている子供の方を見た。
「能く寐ているのね」
 子供は一つ床の中に小さな枕を並べてすやすや寐ていた。
 健三は細君の額の上に自分の右の手を載せた。
「水で頭でも冷して遣《や》ろうか」
「いいえ、もう好《よ》ござんす」
「大丈夫かい」
「ええ」
「本当に大丈夫かい」
「ええ。貴夫ももう御休みなさい」
「己はまだ寐る訳に行かないよ」
 健三はもう一遍書斎へ入って静かな夜《よ》を一人|更《ふ》かさなければならなかった。

     五十一

 彼の眼が冴《さ》えている割に彼の頭は澄み渡らなかった。彼は思索の綱を中断された人のように、考察の進路を遮ぎる霧の中で苦しんだ。
 彼は明日《あした》の朝多くの人より一段高い所に立たなければならない憐《あわ》れな自分の姿を想い見た。その憐れな自分の顔を熱心に見詰めたり、または不得意な自分のいう事を真面目《まじめ》に筆記したりする青年に対して済まない気がした。自分の虚栄心や自尊心を傷《きずつ》けるのも、それらを超越する事の出来ない彼には大きな苦痛であった。
「明日《あした》の講義もまた纏《まと》まらないのかしら」
 こう思うと彼は自分の努力が急に厭《いや》になった。愉快に考えの筋道が運んだ時、折々何者にか煽動《せんどう》されて起る、「己《おれ》の頭は悪くない」という自信も己惚《うぬぼれ》も忽《たちま》ち消えてしまった。同時にこの頭の働らきを攪《か》き乱す自分の周囲についての不平も常時《ふだん》よりは高まって来た。
 彼はしまいに投げるように洋筆《ペン》を放り出した。
「もうやめだ。どうでも構わない」
 時計はもう一時過ぎていた。洋燈《ランプ》を消して暗闇《くらやみ》を縁側伝いに廊下へ出ると、突当《つきあた》りの奥の間の障子二枚だけが灯《ひ》に映って明るかった。健三はその一枚を開けて内に入った。
 子供は犬ころのように塊《かた》まって寐《ね》ていた。細君も静かに眼を閉じて仰向《あおむけ》に眠っていた。
 音のしないように気を付けてその傍《そば》に坐《すわ》った彼は、心持|頸《くび》を延ばして、細君の顔を上から覗《のぞ》き込んだ。それからそっと手を彼女の寐顔《ねがお》の上に翳《かざ》した。彼女は口を閉じていた。彼の掌《てのひら》には細君の鼻の穴から出る生暖かい呼息《いき》が微かに感ぜられた。その呼息は規則正しかった。また穏やかだった。
 彼は漸《ようや》く出した手を引いた。するともう一度細君の名を呼んで見なければまだ安心が出来ないという気が彼の胸を衝《つ》いて起った。けれども彼は直《すぐ》その衝動に打勝った。次に彼はまた細君の肩へ手を懸けて、再び彼女を揺《ゆす》り起そうとしたが、それもやめた。
「大丈夫だろう」
 彼は漸く普通の人の断案に帰着する事が出来た。しかし細君の病気に対して神経の鋭敏になっている彼には、それが何人《なんびと》もこういう場合に取らなければならない尋常の手続きのように思われたのである。
 細君の病気には熟睡が一番の薬であった。長時間彼女の傍に坐って、心配そうにその顔を見詰めている健三に何よりも有難いその眠りが、静かに彼女の瞼《まぶた》の上に落ちた時、彼は天から降る甘露をまのあたり見るような気が常にした。しかしその眠りがまた余り長く続き過ぎると、今度は自分の視線から隠された彼女の眼がかえって不安の種になった。ついに睫毛《まつげ》の鎖《とざ》している奥を見るために、彼は正体《たわい》なく寐入った細君を、わざわざ揺《ゆす》り起して見る事が折々あった。細君がもっと寐かして置いてくれれば好《い》いのにという訴えを疲れた顔色に現わして重い瞼を開くと、彼はその時始めて後悔した。しかし彼の神経はこんな気の毒な真似《まね》をしてまでも、彼女の実在を確かめなければ承知しなかったのである。
 やがて彼は寐衣《ねまき》を着換えて、自分の床に入った。そうして濁りながら動いているような彼の頭を、静かな夜の支配に任せた。夜はその濁りを清めてくれるには余りに暗過ぎた、しかし騒がしいその動きを止めるには充分静かであった。
 翌朝《あくるあさ》彼は自分の名を呼ぶ細君の声で眼を覚ました。
「貴夫《あなた》もう時間ですよ」
 まだ床を離れない細君は、手を延ばして彼の枕元から取った袂時計《たもとどけい》を眺めていた。下女《げじょ》が俎板《まないた》の上で何か刻む音が台所の方で聞こえた。
「婢《おんな》はもう起きてるのか」
「ええ。先刻《さっき》起しに行ったんです」
 細君は下女を起して置いてまた床の中に這入《はい》ったのである。健三はすぐ起き上がった。細君も同時に立った。
 昨夜《ゆうべ》の事は二人ともまるで忘れたように何にもいわなかった。

     五十二

 二人は自分たちのこの態度に対して何の注意も省察《せいさつ》も払わなかった。二人は二人に特有な因果関係を有《も》っている事を冥々《めいめい》の裡《うち》に自覚していた。そうしてその因果関係が一切の他人には全く通じないのだという事も能《よ》く呑《の》み込んでいた。だから事状を知らない第三者の眼に、自分たちがあるいは変に映りはしまいかという疑念さえ起さなかった。
 健三は黙って外へ出て、例の通り仕事をした。しかしその仕事の真際中に彼は突然細君の病気を想像する事があった。彼の眼の前に夢を見ているような細君の黒い眼が不意に浮んだ。すると彼はすぐ自分の立っている高い壇から降りて宅《うち》へ帰らなければならないような気がした。あるいは今にも宅から迎《むかい》が来るような心持になった。彼は広い室《へや》の片隅にいて真ん向うの突当《つきあた》りにある遠い戸口を眺めた。彼は仰向いて兜《かぶと》の鉢金《はちがね》を伏せたような高い丸天井を眺めた。仮漆《ヴァーニッシ》で塗り上げた角材
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