を幾段にも組み上げて、高いものを一層高く見えるように工夫したその天井は、小さい彼の心を包むに足りなかった。最後に彼の眼は自分の下に黒い頭を並べて、神妙に彼のいう事を聴いている多くの青年の上に落ちた。そうしてまた卒然として現実に帰るべく彼らから余儀なくされた。
これほど細君の病気に悩まされていた健三は、比較的島田のために崇《たた》られる恐れを抱《いだ》かなかった。彼はこの老人を因業《いんごう》で強慾《ごうよく》な男と思っていた。しかし一方ではまたそれらの性癖を充分発揮する能力がないものとしてむしろ見縊《みくび》ってもいた。ただ要《い》らぬ会談に惜い時間を潰《つぶ》されるのが、健三には或種類の人の受ける程度より以上の煩いになった。
「何をいって来る気かしら、この次は」
襲われる事を予期して、暗《あん》にそれを苦にするような健三の口振《くちぶり》が、細君の言葉を促がした。
「どうせ分っているじゃありませんか。そんな事を気になさるより早く絶交した方がよっぽど得ですわ」
健三は心の裡で細君のいう事を肯《うけ》がった。しかし口ではかえって反対な返事をした。
「それほど気にしちゃいないさ、あんな者。もともと恐ろしい事なんかないんだから」
「恐ろしいって誰もいやしませんわ。けれども面倒臭《めんどくさ》いにゃ違いないでしょう、いくら貴夫《あなた》だって」
「世の中にはただ面倒臭い位な単純な理由でやめる事の出来ないものがいくらでもあるさ」
多少片意地の分子を含んでいるこんな会話を細君と取り換わせた健三は、その次島田の来た時、例《いつも》よりは忙がしい頭を抱えているにもかかわらず、ついに面会を拒絶する訳に行かなかった。
島田のちと話したい事があるといったのは、細君の推察通りやっぱり金の問題であった。隙《すき》があったら飛び込もうとして、この間から覘《ねらい》を付けていた彼は、何時まで待っても際限がないとでも思ったものか、機会のあるなしに頓着《とんじゃく》なく、ついに健三に肉薄《にくはく》し始めた。
「どうも少し困るので。外にどこといって頼みに行く所もない私《わたし》なんだから、是非一つ」
老人の言葉のどこかには、義務として承知してもらわなくっちゃ困るといった風の横着さが潜んでいた。しかしそれは健三の神経を自尊心の一角において傷《いた》め付けるほど強くも現われていなかった。
健三は立って書斎の机の上から自分の紙入を持って来た。一家の会計を司《つかさ》どっていない彼の財嚢《ざいのう》は無論軽かった。空のまま硯箱《すずりばこ》の傍《そば》に幾日《いくか》も横たわっている事さえ珍らしくはなかった。彼はその中から手に触れるだけの紙幣を攫《つか》み出して島田の前に置いた。島田は変な顔をした。
「どうせ貴方《あなた》の請求通り上げる訳には行かないんです。それでもありったけ悉皆《みんな》上げたんですよ」
健三は紙入の中を開けて島田に見せた。そうして彼の帰ったあとで、空の財布を客間へ放り出したまままた書斎へ入った。細君には金を遣《や》った事を一口もいわなかった。
五十三
翌日《あくるひ》例刻に帰った健三は、机の前に坐《すわ》って、大事らしく何時もの所に置かれた昨日《きのう》の紙入に眼を付けた。革で拵《こし》らえた大型のこの二つ折は彼の持物としてむしろ立派過ぎる位上等な品であった。彼はそれを倫敦《ロンドン》の最も賑《にぎ》やかな町で買ったのである。
外国から持って帰った記念が、何の興味も惹《ひ》かなくなりつつある今の彼には、この紙入も無用の長物と見える外はなかった。細君が何故《なぜ》丁寧にそれを元の場所へ置いてくれたのだろうかとさえ疑った彼は、皮肉な一瞥《いちべつ》を空っぽうの入物に与えたぎり、手も触れずに幾日かを過ごした。
その内何かで金の要《い》る日が来た。健三は机の上の紙入を取り上げて細君の鼻の先へ出した。
「おい少し金を入れてくれ」
細君は右の手で物指《ものさし》を持ったまま夫の顔を下から見上げた。
「這入《はい》ってるはずですよ」
彼女はこの間島田の帰ったあとで何事も夫から聴こうとしなかった。それで老人に金を奪《と》られたことも全く夫婦間の話題に上《のぼ》っていなかった。健三は細君が事状を知らないでこういうのかと思った。
「あれはもう遣《や》っちゃったんだ。紙入は疾《と》うから空っぽうになっているんだよ」
細君は依然として自分の誤解に気が付かないらしかった。物指を畳の上へ投げ出して手を夫の方へ差し延べた。
「ちょっと拝見」
健三は馬鹿々々しいという風をして、それを細君に渡した。細君は中を検《あら》ためた。中からは四、五枚の紙幣《さつ》が出た。
「そらやっぱり入ってるじゃありませんか」
彼女は手垢《てあか》の付いた皺《しわ》だらけの紙幣を、指の間に挟んで、ちょっと胸のあたりまで上げて見せた。彼女の挙動は自分の勝利に誇るものの如く微《かす》かな笑に伴なった。
「何時入れたのか」
「あの人の帰った後でです」
健三は細君の心遣を嬉《うれ》しく思うよりもむしろ珍らしく眺めた。彼の理解している細君はこんな気の利いた事を滅多にする女ではなかったのである。
「己《おれ》が内所《ないしょ》で島田に金を奪《と》られたのを気の毒とでも思ったものかしら」
彼はこう考えた。しかし口へ出してその理由《わけ》を彼女に訊《き》き糺《ただ》して見る事はしなかった。夫と同じ態度をついに失わずにいた彼女も、自ら進んで己《おの》れを説明する面倒を敢《あえ》てしなかった。彼女の填補《てんぽ》した金はかくして黙って受取られ、また黙って消費されてしまった。
その内細君の御腹《おなか》が段々大きくなって来た。起居《たちい》に重苦しそうな呼息《いき》をし始めた。気分も能《よ》く変化した。
「妾《わたくし》今度《こんだ》はことによると助からないかも知れませんよ」
彼女は時々何に感じてかこういって涙を流した。大抵は取り合わずにいる健三も、時として相手にさせられなければ済まなかった。
「何故《なぜ》だい」
「何故だかそう思われて仕方がないんですもの」
質問も説明もこれ以上には上《のぼ》る事の出来なかった言葉のうちに、ぼんやりした或ものが常に潜んでいた。その或ものは単純な言葉を伝わって、言葉の届かない遠い所へ消えて行った。鈴《りん》の音《ね》が鼓膜の及ばない幽《かす》かな世界に潜り込むように。
彼女は悪阻《つわり》で死んだ健三の兄の細君の事を思い出した。そうして自分が長女を生む時に同じ病で苦しんだ昔と照し合せて見たりした。もう二、三日食物が通らなければ滋養|灌腸《かんちょう》をするはずだった際どいところを、よく通り抜けたものだなどと考えると、生きている方がかえって偶然のような気がした。
「女は詰らないものね」
「それが女の義務なんだから仕方がない」
健三の返事は世間並であった。けれども彼自身の頭で批判すると、全くの出鱈目《でたらめ》に過ぎなかった。彼は腹の中で苦笑した。
五十四
健三の気分にも上《あが》り下《さが》りがあった。出任せにもせよ細君の心を休めるような事ばかりはいっていなかった。時によると、不快そうに寐《ね》ている彼女の体《てい》たらくが癪《しゃく》に障って堪らなくなった。枕元に突っ立ったまま、わざと樫貪《けんどん》に要《い》らざる用を命じて見たりした。
細君も動かなかった。大きな腹を畳へ着けたなり打つとも蹴《け》るとも勝手にしろという態度をとった。平生《へいぜい》からあまり口数を利かない彼女は益《ますます》沈黙を守って、それが夫の気を焦立《いらだ》たせるのを目の前に見ながら澄ましていた。
「つまりしぶといのだ」
健三の胸にはこんな言葉が細君の凡《すべ》ての特色ででもあるかのように深く刻み付けられた。彼は外《ほか》の事をまるで忘れてしまわなければならなかった。しぶとい[#「しぶとい」に傍点]という観念だけがあらゆる注意の焦点になって来た。彼はよそを真闇《まっくら》にして置いて、出来るだけ強烈な憎悪の光をこの四字の上に投げ懸けた。細君はまた魚か蛇のように黙ってその憎悪を受取った。従って人目には、細君が何時でも品格のある女として映る代りに、夫はどうしても気違染《きちがいじ》みた癇癪持《かんしゃくもち》として評価されなければならなかった。
「貴夫《あなた》がそう邪慳《じゃけん》になさると、また歇私的里《ヒステリー》を起しますよ」
細君の眼からは時々こんな光が出た。どういうものか健三は非道《ひど》くその光を怖れた。同時に劇《はげ》しくそれを悪《にく》んだ。我慢な彼は内心に無事を祈りながら、外部《うわべ》では強《し》いて勝手にしろという風を装った。その強硬な態度のどこかに何時でも仮装に近い弱点があるのを細君は能《よ》く承知していた。
「どうせ御産で死んでしまうんだから構やしない」
彼女は健三に聞えよがしに呟《つぶ》やいた。健三は死んじまえといいたくなった。
或晩彼はふと眼を覚まして、大きな眼を開いて天井を見詰ている細君を見た。彼女の手には彼が西洋から持って帰った髪剃《かみそり》があった。彼女が黒檀《エボニー》の鞘《さや》に折り込まれたその刃を真直《まっすぐ》に立てずに、ただ黒い柄《え》だけを握っていたので、寒い光は彼の視覚を襲わずに済んだ。それでも彼はぎょっとした。半身を床の上に起して、いきなり細君の手から髪剃を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《も》ぎ取った。
「馬鹿な真似をするな」
こういうと同時に、彼は髪剃を投げた。髪剃は障子に篏《は》め込んだ硝子《ガラス》に中《あた》ってその一部分を摧《くだ》いて向う側の縁《えん》に落ちた。細君は茫然《ぼうぜん》として夢でも見ている人のように一口も物をいわなかった。
彼女は本当に情に逼《せま》って刃物三昧《はものざんまい》をする気なのだろうか、または病気の発作に自己の意志を捧げべく余儀なくされた結果、無我夢中で切れものを弄《もてあ》そぶのだろうか、あるいは単に夫に打ち勝とうとする女の策略からこうして人を驚かすのだろうか、驚ろかすにしてもその真意は果してどこにあるのだろうか。自分に対する夫を平和で親切な人に立ち返らせるつもりなのだろうか、またはただ浅墓な征服慾に駆られているのだろうか、――健三は床の中で一つの出来事を五条《いつすじ》にも六条《むすじ》にも解釈した。そうして時々眠れない眼をそっと細君の方に向けてその動静をうかがった。寐ているとも起きているとも付かない細君は、まるで動かなかった。あたかも死を衒《てら》う人のようであった。健三はまた枕の上でまた自分の問題の解決に立ち帰った。
その解決は彼の実生活を支配する上において、学校の講義よりも遥かに大切であった。彼の細君に対する基調は、全《まったく》その解決一つでちゃんと定められなければならなかった。今よりずっと単純であった昔、彼は一図に細君の不可思議な挙動を、病のためとのみ信じ切っていた。その時代には発作の起るたびに、神の前に己《おの》れを懺悔《ざんげ》する人の誠を以て、彼は細君の膝下《しっか》に跪《ひざま》ずいた。彼はそれを夫として最も親切でまた最も高尚な処置と信じていた。
「今だってその源因が判然《はっきり》分りさえすれば」
彼にはこういう慈愛の心が充ち満ちていた。けれども不幸にしてその源因は昔のように単純には見えなかった。彼はいくらでも考えなければならなかった。到底解決の付かない問題に疲れて、とろとろと眠るとまたすぐ起きて講義をしに出掛けなければならなかった。彼は昨夕《ゆうべ》の事について、ついに一言《ひとこと》も細君に口を利く機会を得なかった。細君も日の出と共にそれを忘れてしまったような顔をしていた。
五十五
こういう不愉快な場面の後《あと》には大抵仲裁者としての自然が二人の間に這入《はい》って来た。二人は何時となく普通夫婦の利くような口を利き出した。
けれども或時の自然は全く
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