くであった。
「あの辺《へん》も昔と違って大分《だいぶ》変りましたね」
 健三は自分の前に坐《すわ》っている人の真面目《まじめ》さの程度を疑《うたぐ》った。果してこの男が彼の復籍を比田まで頼み込んだのだろうか、また比田が自分たちと相談の結果通り、断然それを拒絶したのだろうか、健三はその明白な事実さえ疑わずにはいられなかった。
「もとはそら彼処《あすこ》に瀑《たき》があって、みんな夏になると能《よ》く出掛けたものですがね」
 島田は相手に頓着《とんじゃく》なくただ世間話を進めて行った。健三の方では無論自分から進んで不愉快な問題に触れる必要を認めないので、ただ老人の迹《あと》に跟《つ》いて引っ張られて行くだけであった。すると何時の間にか島田の言葉遣が崩れて来た。しまいに彼は健三の姉を呼び捨《ず》てにし始めた。
「御夏《おなつ》も年を取ったね。尤《もっと》ももう大分久しく会わないには違ないが。昔はあれでなかなか勝気な女で、能く私《わたし》に喰《く》って掛ったり何《なん》かしたものさ。その代り元々兄弟同様の間柄だから、いくら喧嘩《けんか》をしたって、仲の直るのもまた早いには早いが。何しろ困ると助けてくれって能く泣き付いて来るんで、私ゃ可哀想《かわいそう》だからその度《たん》びにいくらかずつ都合して遣《や》ったよ」
 島田のいう事は、姉が蔭で聴いていたらさぞ怒《おこ》るだろうと思うように横柄《おうへい》であった。それから手前勝手な立場からばかり見た歪《ゆが》んだ事実を他《ひと》に押し付けようとする邪気に充ちていた。
 健三は次第に言葉|少《ずく》なになった。しまいには黙ったなり凝《じっ》と島田の顔を見詰た。
 島田は妙に鼻の下の長い男であった。その上往来などで物を見るときは必ず口を開けていた。だからちょっと馬鹿のようであった。けれども善良な馬鹿としては決して誰の眼にも映ずる男ではなかった。落ち込んだ彼の眼はその底で常に反対の何物かを語っていた。眉《まゆ》はむしろ険しかった。狭くて高い彼の額の上にある髪は、若い時分から左右に分けられた例《ためし》がなかった。法印《ほういん》か何ぞのように常に後《うしろ》へ撫《な》で付けられていた。
 彼はふと健三の眼を見た。そうして相手の腹を読んだ。一旦|横風《おうふう》の昔に返った彼の言葉遣がまた何時の間にか現在の鄭寧《ていねい》さに立ち戻って来た。健三に対して過去の己《おの》れに返ろう返ろうとする試みを遂に断念してしまった。
 彼は室《へや》の内をきょろきょろ見廻し始めた。殺風景を極めたその室の中には生憎《あいにく》額も掛物も掛っていなかった。
「李鴻章《りこうしょう》の書は好きですか」
 彼は突然こんな問を発した。健三は好きとも嫌《きらい》ともいい兼《かね》た。
「好きなら上げても好《よ》ござんす。あれでも価値《ねうち》にしたら今じゃよっぽどするでしょう」
 昔し島田は藤田東湖《ふじたとうこ》の偽筆に時代を着けるのだといって、白髪蒼顔万死余云々《はくはつそうがんばんしのようんぬん》と書いた半切《はんせつ》の唐紙《とうし》を、台所の竈《へっつい》の上に釣るしていた事があった。彼の健三にくれるという李鴻章も、どこの誰が書いたものか頗《すこぶ》る怪しかった。島田から物を貰う気の絶対になかった健三は取り合わずにいた。島田は漸《ようや》く帰った。

     四十七

「何しに来たんでしょう、あの人は」
 目的《あて》なしにただ来るはずがないという感じが細君には強くあった。健三も丁度同じ感じに多少支配されていた。
「解らないね、どうも。一体|魚《さかな》と獣《けだもの》ほど違うんだから」
「何が」
「ああいう人と己《おれ》などとはさ」
 細君は突然自分の家族と夫との関係を思い出した。両者の間には自然の造った溝があって、御互を離隔していた。片意地な夫は決してそれを飛び超えてくれなかった。溝を拵《こしら》えたものの方で、それを埋めるのが当然じゃないかといった風の気分で何時までも押し通していた。里ではまた反対に、夫が自分の勝手でこの溝を掘り始めたのだから、彼の方で其所《そこ》を平《たいら》にしたら好かろうという考えを有《も》っていた。細君の同情は無論自分の家族の方にあった。彼女はわが夫を世の中と調和する事の出来ない偏窟な学者だと解釈していた。同時に夫が里と調和しなくなった源因の中《うち》に、自分が主な要素として這入《はい》っている事も認めていた。
 細君は黙って話を切り上げようとした。しかし島田の方にばかり気を取られていた健三にはその意味が通じなかった。
「御前はそう思わないかね」
「そりゃあの人と貴夫《あなた》となら魚と獣位違うでしょう」
「無論外の人と己と比較していやしない」
 話はまた島田の方へ戻って来た。細君は笑いながら訊《き》いた。
「李鴻章の掛物をどうとかいってたのね」
「己に遣《や》ろうかっていうんだ」
「御止《およ》しなさいよ。そんな物を貰ってまた後からどんな無心を持ち懸けられるかも知れないわ。遣るっていうのは、大方口の先だけなんでしょう。本当は買ってくれっていう気なんですよ、きっと」
 夫婦には李鴻章の掛物よりもまだ外に買いたいものが沢山あった。段々大きくなって来る女の子に、相当の着物を着せて表へ出す事の出来ないのも、細君からいえば、夫の気の付かない心配に違なかった。二円五十銭の月賦で、この間拵えた雨合羽《あまがっぱ》の代を、月々洋服屋に払っている夫も、あまり長閑《のどか》な心持になれようはずがなかった。
「復籍の事は何にもいい出さなかったようですね」
「うん何にもいわない。まるで狐《きつね》に抓《つま》まれたようなものだ」
 始めからこっちの気を引くためにわざとそんな突飛《とっぴ》な要求を持ち出したものか、または真面目《まじめ》な懸合《かけあい》として、それを比田《ひだ》へ持ち込んだ後《あと》、比田からきっぱり断られたので、始めて駄目だと覚《さと》ったものか、健三にはまるで見当が付かなかった。
「どっちでしょう」
「到底解らないよ、ああいう人の考えは」
 島田は実際どっちでも遣りかねない男であった。
 彼は三日ほどしてまた健三の玄関を開けた。その時健三は書斎に灯火《あかり》を点《つ》けて机の前に坐《すわ》っていた。丁度彼の頭に思想上のある問題が一筋の端緒《いとくち》を見せかけた所であった。彼は一図にそれを手近まで手繰《たぐ》り寄せようとして骨を折った。彼の思索は突然|截《た》ち切られた。彼は苦い顔をして室《へや》の入口に手を突いた下女《げじょ》の方を顧みた。
「何もそう度々《たびたび》来て、他《ひと》の邪魔をしなくっても好さそうなものだ」
 彼は腹の中でこう呟《つぶ》やいた。断然面会を謝絶する勇気を有《も》たない彼は、下女を見たなり少時《しばらく》黙っていた。
「御通し申しますか」
「うん」
 彼は仕方なしに答えた。それから「御奥《おく》さんは」と訊《たず》ねた。
「少し御気分が悪いと仰《おっ》しゃって先刻《さっき》から伏せっていらっしゃいます」
 細君の寐《ね》るときは歇私的里《ヒステリー》の起った時に限るように健三には思えてならなかった。彼は漸《ようや》く立ち上った。

     四十八

 電気燈のまだ戸《こ》ごとに点《とも》されない頃だったので、客間には例《いつ》もの通り暗い洋燈《ランプ》が点《つ》いていた。
 その洋燈は細長い竹の台の上に油壺《あぶらつぼ》を篏《は》め込むように拵《こしら》えたもので、鼓《つづみ》の胴の恰形《かっこう》に似た平たい底が畳へ据わるように出来ていた。
 健三が客間へ出た時、島田はそれを自分の手元に引き寄せて心《しん》を出したり引っ込ましたりしながら灯火《あかり》の具合を眺めていた。彼は改まった挨拶《あいさつ》もせずに、「少し油煙がたまるようですね」といった。
 なるほど火屋《ほや》が薄黒く燻《くす》ぶっていた。丸心《まるじん》の切方《きりかた》が平《たいら》に行かないところを、むやみに灯《ひ》を高くすると、こんな変調を来すのがこの洋燈の特徴であった。
「換えさせましょう」
 家には同じ型のものが三つばかりあった。健三は下女《げじょ》を呼んで茶の間にあるのと取り換えさせようとした。しかし島田は生返事をするぎりで、容易に煤《すす》で曇った火屋から眼を離さなかった。
「どういう加減だろう」
 彼は独り言をいって、草花の模様だけを不透明に擦《す》った丸い蓋《かさ》の隙間を覗《のぞ》き込んだ。
 健三の記憶にある彼は、こんな事を能《よ》く気にするという点において、頗《すこぶ》る几帳面《きちょうめん》な男に相違なかった。彼はむしろ潔癖であった。持って生れた倫理上の不潔癖と金銭上の不潔癖の償いにでもなるように、座敷や縁側の塵《ちり》を気にした。彼は尻《しり》をからげて、拭《ふき》掃除をした。跣足《はだし》で庭へ出て要《い》らざる所まで掃いたり水を打ったりした。
 物が壊れると彼はきっと自分で修復《なお》した。あるいは修復そうとした。それがためにどの位な時間が要っても、またどんな労力が必要になって来ても、彼は決して厭《いと》わなかった。そういう事が彼の性《しょう》にあるばかりでなく、彼には手に握った一銭銅貨の方が、時間や労力よりも遥かに大切に見えたのである。
「なにそんなものは宅《うち》で出来る。金を出して頼むがものはない。損だ」
 損をするという事が彼には何よりも恐ろしかった。そうして目に見えない損はいくらしても解らなかった。
「宅《うち》の人はあんまり正直過ぎるんで」
 御藤《おふじ》さんは昔健三に向って、自分の夫を評するときに、こんな言葉を使った。世の中をまだ知らない健三にもその真実でない事はよく解っていた。ただ自分の手前、嘘《うそ》と承知しながら、夫の品性を取り繕うのだろうと善意に解釈した彼は、その時御藤さんに向って何にもいわなかった。しかし今考えて見ると、彼女の批評にはもう少し慥《たしか》な根底があるらしく思えた。
「必竟《ひっきょう》大きな損に気のつかない所が正直なんだろう」
 健三はただ金銭上の慾《よく》を満たそうとして、その慾に伴なわない程度の幼稚な頭脳を精一杯に働らかせている老人をむしろ憐れに思った。そうして凹《くぼ》んだ眼を今|擦《す》り硝子《ガラス》の蓋の傍《そば》へ寄せて、研究でもする時のように、暗い灯を見詰めている彼を気の毒な人として眺めた。
「彼はこうして老いた」
 島田の一生を煎《せん》じ詰めたような一句を眼の前に味わった健三は、自分は果してどうして老ゆるのだろうかと考えた。彼は神という言葉が嫌《きらい》であった。しかしその時の彼の心にはたしかに神という言葉が出た。そうして、もしその神が神の眼で自分の一生を通して見たならば、この強慾《ごうよく》な老人の一生と大した変りはないかも知れないという気が強くした。
 その時島田は洋燈の螺旋《ねじ》を急に廻したと見えて、細長い火屋の中が、赤い火で一杯になった。それに驚ろいた彼は、また螺旋を逆に廻し過ぎたらしく、今度はただでさえ暗い灯火《あかり》をなおの事暗くした。
「どうもどこか調子が狂ってますね」
 健三は手を敲《たた》いて下女に新しい洋燈を持って来さした。

     四十九

 その晩の島田はこの前来た時と態度の上において何の異なる所もなかった。応対にはどこまでも健三を独立した人と認めるような言葉ばかり使った。
 しかし彼はもう先達《せんだっ》ての掛物についてはまるで忘れているかの如くに見えた。李鴻章《りこうしょう》の李の字も口にしなかった。復籍の事はなお更であった。噫《おくび》にさえ出す様子を見せなかった。
 彼はなるべくただの話をしようとした。しかし二人に共通した興味のある問題は、どこをどう探しても落ちているはずがなかった。彼のいう事の大部分は、健三に取って全くの無意味から余り遠く隔《へだた》っているとも思えなかった。
 健三は退屈した。しかしその退屈のうちには一種の注意が徹《
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