突いて考えさせられるばかりであった。
彼はこうした不安を何度となく繰り返しながら、昔しから今日《こんにち》まで同じ職務に従事して、動きもしなければ発展もしなかった。健三よりも七つばかり年上な彼の半生は、あたかも変化を許さない器械のようなもので、次第に消耗《しょうこう》して行くより外には何の事実も認められなかった。
「二十四、五年もあんな事をしている間には何か出来そうなものだがね」
健三は時々自分の兄をこんな言葉で評したくなった。その兄の派出好《はでずき》で勉強|嫌《ぎらい》であった昔も眼の前に見えるようであった。三味線《しゃみせん》を弾《ひ》いたり、一絃琴《いちげんきん》を習ったり、白玉《しらたま》を丸めて鍋《なべ》の中へ放り込んだり、寒天を煮て切溜《きりだめ》で冷したり、凡《すべ》ての時間はその頃の彼に取って食う事と遊ぶ事ばかりに費やされていた。
「みんな自業自得だといえば、まあそんなものさね」
これが今の彼の折々他《ひと》に洩《もら》す述懐になる位彼は怠け者であった。
兄弟が死に絶えた後《あと》、自然健三の生家の跡を襲《つ》ぐようになった彼は、父が亡くなるのを待って、家屋敷をすぐ売り払ってしまった。それで元からある借金を済《な》して、自分は小さな宅《うち》へ這入《はい》った。それから其所《そこ》に納まり切らない道具類を売払った。
間もなく彼は三人の子の父になった。そのうちで彼の最も可愛《かあい》がっていた惣領《そうりょう》の娘が、年頃になる少し前から悪性の肺結核に罹《かか》ったので、彼はその娘を救うために、あらゆる手段を講じた。しかし彼のなし得《う》る凡ては残酷な運命に対して全くの徒労に帰した。二年越|煩《わずら》った後で彼女が遂に斃《たお》れた時、彼の家の箪笥《たんす》はまるで空になっていた。儀式に要《い》る袴《はかま》は無論、ちょっとした紋付の羽織《はおり》さえなかった。彼は健三の外国で着古した洋服を貰《もら》って、それを大事に着て毎日局へ出勤した。
三十五
二、三日経って健三の兄は果して細君の予想通り袴《はかま》を返しに来た。
「どうも遅くなって御気の毒さま。有難う」
彼は腰板の上に双方の端《はじ》を折返して小さく畳んだ袴を、風呂敷の中から出して細君の前に置いた。大の見栄坊《みえぼう》で、ちょっとした包物を持つのも厭《いや》がった昔に比べると、今の兄は全く色気が抜けていた。その代り膏気《あぶらっけ》もなかった。彼はぱさぱさした手で、汚れた風呂敷の隅を抓《つま》んで、それを鄭寧《ていねい》に折った。
「こりゃ好い袴だね。近頃|拵《こしら》えたの」
「いいえ。なかなかそんな勇気はありません。昔からあるんです」
細君は結婚のときこの袴を着けて勿体《もったい》らしく坐《すわ》った夫の姿を思いだした。遠い所で極《ごく》簡略に行われたその結婚の式に兄は列席していなかった。
「へええ。そうかね。なるほどそういわれるとどこかで見たような気もするが、しかし昔のものはやっぱり丈夫なんだね。ちっとも敗《いた》んでいないじゃないか」
「滅多に穿《は》かないんですもの。それでも一人でいるうちに能《よ》くそんな物を買う気になれたのね、あの人が。私《わたくし》今でも不思議だと思いますわ」
「あるいは婚礼の時に穿くつもりでわざわざ拵えたのかも知れないね」
二人はその時の異様な結婚式について笑いながら話し合った。
東京からわざわざ彼女を伴《つ》れて来た細君の父は、娘に振袖《ふりそで》を着せながら、自分は一通りの礼装さえ調《ととの》えていなかった。セルの単衣《ひとえ》を着流しのままでしまいには胡坐《あぐら》さえ掻《か》いた。婆《ばあ》さん一人より外に誰も相談する相手のない健三の方ではなおの事困った。彼は結婚の儀式について全くの無方針であった。もともと東京へ帰ってから貰《もら》うという約束があったので、媒酌人《なこうど》もその地にはいなかった。健三は参考のためこの媒酌人が書いて送ってくれた注意書《ちゅういしょ》のようなものを読んで見た。それは立派な紙に楷書《かいしょ》で認《したた》められた厳《いか》めしいものには違なかったが、中には『東鑑《あずまかがみ》』などが例に引いてあるだけで、何の実用にも立たなかった。
「雌蝶《めちょう》も雄蝶《おちょう》もあったもんじゃないのよ貴方《あなた》。だいち御盃《おさかずき》の縁が欠けているんですもの」
「それで三々九度を遣《や》ったのかね」
「ええ。だから夫婦中《ふうふなか》がこんなにがたぴしするんでしょう」
兄は苦笑した。
「健三もなかなかの気六《きむ》ずかしやだから、御住《おすみ》さんも骨が折れるだろう」
細君はただ笑っていた。別段兄の言葉に取り合う気色《けしき》も見えなかった。
「もう帰りそうなものですがね」
「今日は待ってて例の事件を話して行かなくっちゃあ、……」
兄はまだその後をいおうとした。細君はふいと立って茶の間へ時計を見に這入《はい》った。其所《そこ》から出て来た時、彼女はこの間の書類を手にしていた。
「これが要《い》るんでしょう」
「いえそれはただ参考までに持って来たんだから、多分要るまい。もう健三に見せてくれたんでしょう」
「ええ見せました」
「何といってたかね」
細君は何とも答えようがなかった。
「随分沢山色々な書付が這入っていますわね。この中には」
「御父さんが、今に何か事があるといけないって、丹念に取って置いたんだから」
細君は夫から頼まれてその中《うち》の最も大切らしい一部分を彼のために代読した事はいわなかった。兄もそれぎり書類について語らなくなった。二人は健三の帰るまでの時間をただの雑談に費やした。その健三は約三十分ほどして帰って来た。
三十六
彼が何時《いつ》もの通り服装を改めて座敷へ出た時、赤と白と撚《よ》り合せた細い糸で括《くく》られた例の書類は兄の膝の上にあった。
「先達《せんだっ》ては」
兄は油気の抜けた指先で、一度解きかけた糸の結び目を元の通りに締めた。
「今ちょっと見たらこの中には君に不必要なものが紛れ込んでいるね」
「そうですか」
この大事そうにしまい込まれてあった書付に、兄が長い間眼を通さなかった事を健三は知った。兄はまた自分の弟がそれほど熱心にそれを調べていない事に気が付いた。
「御由《およし》の送籍願が這入ってるんだよ」
御由というのは兄の妻《さい》の名であった。彼がその人と結婚する当時に必要であった区長宛の願書が其所《そこ》から出て来《き》ようとは、二人とも思いがけなかった。
兄は最初の妻《さい》を離別した。次の妻に死なれた。その二度目の妻が病気の時、彼は大して心配の様子もなく能《よ》く出歩いた。病症が悪阻《つわり》だから大丈夫という安心もあるらしく見えたが、容体《ようだい》が険悪になって後も、彼は依然としてその態度を改める様子がなかったので、人はそれを気に入らない妻《つま》に対する仕打とも解釈した。健三もあるいはそうだろうと思った。
三度目の妻《さい》を迎える時、彼は自分から望みの女を指名して父の許諾を求めた。しかし弟には一言《いちごん》の相談もしなかった。それがため我《が》の強い健三の、兄に対する不平が、罪もない義姉《あね》の方にまで影響した。彼は教育も身分もない人を自分の姉と呼ぶのは厭《いや》だと主張して、気の弱い兄を苦しめた。
「なんて捌《さば》けない人だろう」
陰で批評の口に上るこうした言葉は、彼を反省させるよりもかえって頑固《かたくな》にした。習俗《コンヴェンション》を重んずるために学問をしたような悪い結果に陥って自ら知らなかった彼には、とかく自分の不見識を認めて見識と誇りたがる弊《へい》があった。彼は慚愧《ざんき》の眼をもって当時の自分を回顧した。
「送籍願が紛れ込んでいるなら、それを御返しするから、持って行ったら好《い》いでしょう」
「いいえ写しだから、僕も要らないんだ」
兄は紅白の糸に手も触れなかった。健三はふとその日附が知りたくなった。
「一体何時頃でしたかね。それを区役所へ出したのは」
「もう古い事さ」
兄はこれだけいったぎりであった。その唇には微笑の影が差した。最初も二返目も失敗《しくじ》って、最後にやっと自分の気に入った女と一所になった昔を忘れるほど、彼は耄碌《もうろく》していなかった。同時にそれを口へ出すほど若くもなかった。
「御幾年《おいくつ》でしたかね」と細君が訊《き》いた。
「御由ですか。御由は御住《おすみ》さんと一つ違ですよ」
「まだ御若いのね」
兄はそれには何とも答えずに、先刻から膝《ひざ》の上に置いた書類の帯を急に解き始めた。
「まだこんなものが這入《はい》っていたよ。これも君にゃ関係のないものだ。さっき見て僕もちょいと驚ろいたが、こら」
彼はごたごたした故紙の中から、何の雑作もなく一枚の書付を取り出した。それは喜代子《きよこ》という彼の長女の出産届の下書であった。「右者《みぎは》本月《ほんげつ》二十三日午前十一時五十分|出生《しゅっしょう》致し候《そろ》」という文句の、「本月二十三日」だけに棒が引懸けて消してある上に、虫の食った不規則な線が筋違《すじかい》に入っていた。
「これも御父《おとっ》さんの手蹟《て》だ。ねえ」
彼はその一枚の反故《ほご》を大事らしく健三の方へ向け直して見せた。
「御覧、虫が食ってるよ。尤《もっと》もそのはずだね。出産届ばかりじゃない、もう死亡届まで出ているんだから」
結核で死んだその子の生年月を、兄は口のうちで静かに読んでいた。
三十七
兄は過去の人であった。華美《はなやか》な前途はもう彼の前に横《よこた》わっていなかった。何かに付けて後《うしろ》を振り返りがちな彼と対坐《たいざ》している健三は、自分の進んで行くべき生活の方向から逆に引き戻されるような気がした。
「淋《さむ》しいな」
健三は兄の道伴《みちづれ》になるには余りに未来の希望を多く持ち過ぎた。そのくせ現在の彼もかなりに淋《さむ》しいものに違なかった。その現在から順に推した未来の、当然淋しかるべき事も彼にはよく解っていた。
兄はこの間の相談通り島田の要求を断った旨を健三に話した。しかしどんな手続きでそれを断ったのか、また先方がそれに対してどんな挨拶《あいさつ》をしたのか、そういう細かい点になると、全く要領を得た返事をしなかった。
「何しろ比田《ひだ》からそういって来たんだから慥《たしか》だろう」
その比田が島田に会いに行って話を付けたとも、または手紙で会見の始末を知らせて遣《や》ったとも、健三には判明《わか》らなかった。
「多分行ったんだろうと思うがね。それともあの人の事だから、手紙だけで済ましてしまったのか。其所《そこ》はつい聴いて来るのを忘れたよ。尤《もっと》もあの後《ご》一|返《ぺん》姉さんの見舞かたがた行った時にゃ、比田が相変らず留守だったので、つい会う事が出来なかったのさ。しかしその時姉さんの話じゃ、何でも忙がしいんで、まだそのままにしてあるようだっていってたがね。あの男も随分無責任だから、ことによると行かないのかも知れないよ」
健三の知っている比田も無責任の男に相違なかった。その代り頼むと何でも引き受ける性質《たち》であった。ただ他《ひと》から頭を下げて頼まれるのが嬉《うれ》しくって物を受合いたがる彼は、頼み方が気に入らないと容易に動かなかった。
「しかしこんだの事なんざあ、島田がじかに比田の所へ持ち込んだんだからねえ」
兄は暗《あん》に比田自身が先方へ出向いて話し合を付けなければ義理の悪いような事をいった。そのくせ彼はこんな場合に決して自分で懸合事《かけあいごと》などに出掛ける人ではなかった。少し気を遣《つか》わなければならない面倒が起ると必ず顔を背けた。そうして事情の許す限り凝《じっ》と辛防《しんぼう》して独り苦しんだ。健三にはこの矛盾が腹立たしくも可笑《おか》しくもない代りに何となく気の毒に見えた
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