彼は漸《よう》やく書類の結目を解《と》いて一所に重なっているものを、一々ほごし始めた。手続き書と書いたものや、取《と》り替《かわ》せ一札の事と書いたものや、明治二十一年|子《ね》一月|約定金請取《やくじょうきんうけとり》の証と書いた半紙二つ折の帳面やらが順々にあらわれて来た。その帳面のしまいには、右本日|受取《うけとり》右月賦金は皆済相成候事《かいざいあいなりそうろうこと》と島田の手蹟で書いて黒い判がべたりと捺《お》してあった。
「おやじは月々三円か四円ずつ取られたんだな」
「あの人にですか」
細君はその帳面を逆さまに覗《のぞ》き込んでいた。
「|〆《しめ》ていくらになるかしら。しかしこの外にまだ一時に遣《や》ったものがあるはずだ。おやじの事だから、きっとその受取を取って置いたに違ない。どこかにあるだろう」
書付はそれからそれへと続々出て来た。けれども、健三の眼にはどれもこれもごちゃごちゃして容易に解らなかった。彼はやがて四つ折にして一纏めに重ねた厚みのあるものを取り上げて中を開いた。
「小学校の卒業証書まで入れてある」
その小学校の名は時によって変っていた。一番古いものには第一大学区第五中学区第八番小学などという朱印が押してあった。
「何ですかそれは」
「何だか己も忘れてしまった」
「よっぽど古いものね」
証書のうちには賞状も二、三枚|交《まじ》っていた。昇《のぼ》り竜と降《くだ》り竜で丸い輪廓《りんかく》を取った真中に、甲科と書いたり乙科と書いたりしてある下に、いつも筆墨紙と横に断ってあった。
「書物も貰《もら》った事があるんだがな」
彼は『勧善訓蒙《かんぜんくんもう》』だの『輿地誌略《よちしりゃく》』だのを抱いて喜びの余り飛んで宅《うち》へ帰った昔を思い出した。御褒美《ごほうび》をもらう前の晩夢に見た蒼《あお》い竜と白い虎の事も思い出した。これらの遠いものが、平生《へいぜい》と違って今の健三には甚だ近く見えた。
三十二
細君にはこの古臭い免状がなおの事珍らしかった。夫の一旦《いったん》下へ置いたのをまた取り上げて、一枚々々鄭寧《ていねい》に剥繰《はぐ》って見た。
「変ですわね。下等小学第五級だの六級だのって。そんなものがあったんでしょうか」
「あったんだね」
健三はそのまま外《ほか》の書付《かきつけ》に手を着けた。読みにくい彼の父の手蹟が大いに彼を苦しめた。
「これを御覧、とても読む勇気がないね。ただでさえ判明《わか》らないところへ持って来て、むやみに朱を入れたり棒を引いたりしてあるんだから」
健三の父と島田との懸合《かけあい》について必要な下書《したがき》らしいものが細君の手に渡された。細君は女だけあって、綿密にそれを読み下《くだ》した。
「貴夫《あなた》の御父さまはあの島田って人の世話をなすった事があるのね」
「そんな話は己《おれ》も聞いてはいるが」
「此所《ここ》に書いてありますよ。――同人幼少にて勤向《つとめむき》相成りがたく当方《とうかた》へ引き取り五カ年間養育致|候縁合《そろえんあい》を以てと」
細君の読み上げる文章は、まるで旧幕時代の町人が町奉行《まちぶぎょう》か何かへ出す訴状のように聞こえた。その口調に動かされた健三は、自然古風な自分の父を眼の前に髣髴《ほうふつ》した。その父から、将軍の鷹狩《たかがり》に行く時の模様などを、それ相当の敬語で聞かされた昔も思い合された。しかし事実の興味が主として働らきかけている細君の方ではまるで文体などに頓着《とんじゃく》しなかった。
「その縁故で貴夫はあの人の所へ養子に遣《や》られたのね。此所にそう書いてありますよ」
健三は因果な自分を自分で憐《あわ》れんだ。平気な細君はその続きを読み出した。
「右健三三歳のみぎり養子に差遣《さしつかわ》し置候処《おきそろところ》平吉儀妻《へいきちぎさい》常《つね》と不和を生じ、遂に離別と相成候につき当時八歳の健三を当方へ引き取り今日《こんにち》まで十四カ年間養育致し、――あとは真赤《まっか》でごちゃごちゃして読めないわね」
細君は自分の眼の位置と書付の位置とを色々に配合して後を読もうと企てた。健三は腕組をして黙って待っていた。細君はやがてくすくす笑い出した。
「何が可笑《おか》しいんだ」
「だって」
細君は何にもいわずに、書付を夫の方に向け直した。そうして人さし指の頭で、細かく割註《わりちゅう》のように朱で書いた所を抑えた。
「ちょっと其所《そこ》を読んで御覧なさい」
健三は八の字を寄せながら、その一行を六《む》ずかしそうに読み下した。
「取扱い所勤務中|遠山藤《とおやまふじ》と申す後家《ごけ》へ通じ合い候《そうろう》が事の起り。――何だ下らない」
「しかし本当なんでしょう」
「本当は本当さ」
「それが貴夫の八ツの時なのね。それから貴夫は御自分の宅《うち》へ御帰りになった訳ね」
「しかし籍を返さないんだ」
「あの人が?」
細君はまたその書付を取り上げた。読めない所はそのままにして置いて、読める所だけ眼を通しても、自分のまだ知らない事実が出て来るだろうという興味が、少なからず彼女の好奇心を唆《そそ》った。
書付のしまいの方には、島田が健三の戸籍を元通りにして置いて実家へ返さないのみならず、いつの間にか戸主に改めた彼の印形《いんぎょう》を濫用《らんよう》して金を借り散らした例などが挙げてあった。
いよいよ手を切る時に養育料として島田に渡した金の証文も出て来た。それには、しかる上は健三離縁本籍と引替に当金――円御渡し被下《くだされ》、残金――円は毎月《まいげつ》三十日限り月賦にて御差入《おさしいれ》のつもり御対談|云々《うんぬん》と長たらしく書いてあった。
「凡《すべ》て変梃《へんてこ》な文句ばかりだね」
「親類取扱人|比田寅八《ひだとらはち》って下に印が押してあるから、大方比田さんでも書いたんでしょう」
健三はついこの間会った比田の万事に心得顔な様子と、この証文の文句とを引き比べて見た。
三十三
葬式の帰りに寄るかも知れないといった兄は遂に顔を見せなかった。
「あんまり遅くなったから、すぐ御帰りになったんでしょう」
健三にはその方が便宜であった。彼の仕事は前の日か前の晩を潰《つぶ》して調べたり考えたりしなければ義務を果す事の出来ない性質のものであった。従って必要な時間を他《ひと》に食い削られるのは、彼に取って甚しい苦痛になった。
彼は兄の置いて行った書類をまた一纏《ひとまと》めにして、元のかんじん撚《より》で括《くく》ろうとした。彼が指先に力を入れた時、そのかんじん撚はぷつりと切れた。
「あんまり古くなって、弱ったのね」
「まさか」
「だって書付の方は虫が食ってる位ですもの、貴夫《あなた》」
「そういえばそうかも知れない。何しろ抽斗《ひきだし》に投げ込んだなり、今日《こんにち》まで放って置いたんだから。しかし兄貴も能《よ》くまあこんなものを取って置いたものだね。困っちゃ何でも売るくせに」
細君は健三の顔を見て笑い出した。
「誰も買い手がないでしょう。そんな虫の食った紙なんか」
「だがさ。能《よ》く紙屑籠《かみくずかご》の中へ入れてしまわなかったという事さ」
細君は赤と白で撚った細い糸を火鉢《ひばち》の抽斗から出して来て、其所《そこ》に置かれた書類を新らしく絡《から》げた上、それを夫に渡した。
「己《おれ》の方にゃしまって置く所がないよ」
彼の周囲は書物で一杯になっていた。手文庫には文殻《ふみがら》とノートがぎっしり詰っていた。空地《くうち》のあるのは夜具《やぐ》蒲団《ふとん》のしまってある一|間《けん》の戸棚だけであった。細君は苦笑して立ち上った。
「御兄《おあにい》さんは二、三日うちきっとまたいらっしゃいますよ」
「あの事でかい」
「それもそうですけれども、今日《きょう》御葬式にいらっしゃる時に、袴《はかま》が要《い》るから借してくれって、此所《ここ》で穿《は》いていらしったんですもの。きっとまた返しにいらっしゃるに極《きま》っていますわ」
健三は自分の袴を借りなければ葬式の供に立てない兄の境遇を、ちょっと考えさせられた。始めて学校を卒業した時彼はその兄から貰《もら》ったべろべろの薄羽織《うすばおり》を着て友達と一所に池《いけ》の端《はた》で写真を撮った事をまだ覚えていた。その友達の一人《いちにん》が健三に向って、この中で一番先に馬車へ乗るものは誰《たれ》だろうといった時に、彼は返事をしないで、ただ自分の着ている羽織を淋《さび》しそうに眺めた。その羽織は古い絽《ろ》の紋付に違なかったが、悪くいえば申し訳のために破けずにいる位な見すぼらしい程度のものであった。懇意な友人の新婚|披露《ひろう》に招かれて星《ほし》が岡《おか》の茶寮《さりょう》に行った時も、着るものがないので、袴羽織とも凡《すべ》て兄のを借りて間に合せた事もあった。
彼は細君の知らないこんな記憶を頭の中に呼び起した。しかしそれは今の彼を得意にするよりもかえって悲しくした。今昔《こんじゃく》の感――そういう在来《ありきたり》の言葉で一番よく現せる情緒が自然と彼の胸に湧《わ》いた。
「袴位ありそうなものだがね」
「みんな長い間に失くして御しまいなすったんでしょう」
「困るなあ」
「どうせ宅《うち》にあるんだから、要る時に貸して上げさいすりゃそれで好《い》いでしょう。毎日使うものじゃなし」
「宅にある間はそれで好いがね」
細君は夫に内所《ないしょ》で自分の着物を質に入れたついこの間の事件を思い出した。夫には何時自分が兄と同じ境遇に陥らないものでもないという悲観的な哲学があった。
昔の彼は貧しいながら一人で世の中に立っていた。今の彼は切り詰めた余裕のない生活をしている上に、周囲のものからは、活力の心棒のように思われていた。それが彼には辛かった。自分のようなものが親類中で一番好くなっていると考えられるのはなおさら情《なさけ》なかった。
三十四
健三の兄は小役人であった。彼は東京の真中にある或《ある》大きな局へ勤めていた。その宏壮《こうそう》な建物のなかに永い間|憐《あわ》れな自分の姿を見出す事が、彼には一種の不調和に見えた。
「僕なんぞはもう老朽なんだからね。何しろ若くって役に立つ人が後から後からと出て来るんだから」
その建物のなかには何百という人間が日となく夜《よ》となく烈《はげ》しく働らいていた。気力の尽きかけた彼の存在はまるで形のない影のようなものに違なかった。
「ああ厭《いや》だ」
活動を好まない彼の頭には常にこんな観念が潜んでいた。彼は病身であった。年歯《とし》より早く老けた。年歯より早く干乾《ひから》びた。そうして色沢《いろつや》の悪い顔をしながら、死ににでも行く人のように働いた。
「何しろ夜|寐《ね》ないんだから、身体《からだ》に障ってね」
彼はよく風邪《かぜ》を引いて咳嗽《せき》をした。ある時は熱も出た。するとその熱が必ず肺病の前兆でなければならないように彼を脅かした。
実際彼の職業は強壮な青年にとっても苦しい性質のものに違なかった。彼は隔晩に局へ泊らせられた。そうして夜通し起きて働らかなければならなかった。翌日《あくるひ》の朝彼はぼんやりして自分の宅《うち》へ帰って来た。その日一日は何をする勇気もなく、ただぐたりと寐て暮らす事さえあった。
それでも彼は自分のためまた家族のために働らくべく余儀なくされた。
「今度《こんだ》は少し危険《あぶな》いようだから、誰かに頼んでくれないか」
改革とか整理とかいう噂《うわさ》のあるたびに、健三はよくこんな言葉を彼の口から聞かされた。東京を離れている時などは、わざわざ手紙で依頼して来た事も一返や二返ではなかった。彼はその都度《つど》誰それにといって、わざわざ要路の人を指名した。しかし健三にはただ名前が知れているだけで、自分の兄の位置を保証してもらうほどの親しみのあるものは一人もなかった。健三は頬杖《ほおづえ》を
前へ
次へ
全35ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング