ないからな」
 二人は腹の中で、自分らの家《うち》の経済状態を別々に考えた。月々支出している、また支出しなければならない金額は、彼に取って随分苦しい労力の報酬であると同時に、それで凡《すべ》てを賄《まかな》って行く細君に取っても、少しも裕《ゆたか》なものとはいわれなかった。

     十四

 健三はそれぎり座を立とうとした。しかし細君にはまだ訊《き》きたい事が残っていた。
「それで素直に帰って行ったんですか、あの男は。少し変ね」
「だって断られれば仕方がないじゃないか。喧嘩《けんか》をする訳にも行かないんだから」
「だけど、また来るんでしょう。ああして大人しく帰って置いて」
「来ても構わないさ」
「でも厭《いや》ですわ、蒼蠅《うるさ》くって」
 健三は細君が次の間で先刻《さっき》の会話を残らず聴いていたものと察した。
「御前聴いてたんだろう、悉皆《すっかり》」
 細君は夫の言葉を肯定しない代りに否定もしなかった。
「じゃそれで好《い》いじゃないか」
 健三はこういったなりまた立って書斎へ行こうとした。彼は独断家であった。これ以上細君に説明する必要は始めからないものと信じていた。細君
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