いう事を思い出した。しかし彼は何にもいわずにまた顔を背けてしまった。それで細君の胸には夫の心持が少しも映らなかった。
「あなたどうなすったんです」
「風邪を引いたんだって、医者がいうじゃないか」
「そりゃ解ってます」
会話はそれで途切れてしまった。細君は厭《いや》な顔をしてそれぎり部屋を出て行った。健三は手を鳴らしてまた細君を呼び戻した。
「己《おれ》がどうしたというんだい」
「どうしたって、――あなたが御病気だから、私《わたくし》だってこうして氷嚢を更《か》えたり、薬を注《つ》いだりして上げるんじゃありませんか。それをあっちへ行けの、邪魔だのって、あんまり……」
細君は後をいわずに下を向いた。
「そんな事をいった覚はない」
「そりゃ熱の高い時|仰《おっ》しゃった事ですから、多分覚えちゃいらっしゃらないでしょう。けれども平生《へいぜい》からそう考えてさえいらっしゃらなければ、いくら病気だって、そんな事を仰しゃる訳がないと思いますわ」
こんな場合に健三は細君の言葉の奥に果してどの位な真実が潜んでいるだろうかと反省して見るよりも、すぐ頭の力で彼女を抑えつけたがる男であった。事実の問題
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