健三はこの無茶苦茶な言掛《いいがか》りに怒《おこ》らされるよりはむしろ驚ろかされた。
「八百円だろうが千円だろうが、私の収入は私の収入です。貴方《あなた》の関係した事じゃありません」
 島田は其所《そこ》まで来て黙った。健三の答が自分の予期に外れたというような風も見えた。ずうずうしい割に頭の発達していない彼は、それ以上相手をどうする事も出来なかった。
「じゃいくら困っても助けてくれないというんですね」
「ええ、もう一文も上ません」
 島田は立ち上った。沓脱《くつぬぎ》へ下りて、開けた格子《こうし》を締める時に、彼はまた振り返った。
「もう参上《あが》りませんから」
 最後であるらしい言葉を一句遺した彼の眼は暗い中《うち》に輝やいた。健三は敷居の上に立って明らかにその眼を見下《みおろ》した。しかし彼はその輝きのうちに何らの凄《すご》さも怖ろしさもまた不気味さも認めなかった。彼自身の眸《ひとみ》から出る怒《いか》りと不快とは優にそれらの襲撃を跳ね返すに充分であった。
 細君は遠くから暗《あん》に健三の気色《けしき》を窺《うかが》った。
「一体どうしたんです」
「勝手にするが好《い》いや」

前へ 次へ
全343ページ中302ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング