所《いどころ》を突き留めようとまでは思っていなかったので、大した失望も感じなかった。彼はこの場合まだそれほどの手数《てかず》を尽す必要がないと信じていた。たとい尽すにしたところで、一種の好奇心を満足するに過ぎないとも考えていた。その上今の彼はこういう好奇心を軽蔑《けいべつ》しなければならなかった。彼の時間はそんな事に使用するには余りに高価すぎた。
 彼はただ想像の眼で、子供の時分見たその人の家と、その家の周囲とを、心のうちに思い浮べた。
 其所《そこ》には往来の片側に幅の広い大きな堀が一丁も続いていた。水の変らないその堀の中は腐った泥で不快に濁っていた。所々に蒼《あお》い色が湧《わ》いて厭《いや》な臭《におい》さえ彼の鼻を襲った。彼はその汚《きた》ならしい一廓《いっかく》を――様《さま》の御屋敷という名で覚えていた。
 堀の向う側には長屋がずっと並んでいた。その長屋には一軒に一つ位の割で四角な暗い窓が開けてあった。石垣とすれすれに建てられたこの長屋がどこまでも続いているので、御屋敷のなかはまるで見えなかった。
 この御屋敷と反対の側には小さな平家《ひらや》が疎《まば》らに並んでいた。古
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