ま》でも持ってって下さいっていったらね、じゃ釜を持ってくっていうんだよ。あきれるじゃないか」
「釜を持って行くったって、重くってとても持てやしないでしょう」
「ところがあの業突張《ごうつくばり》の事だから、どんな事をして持ってかないとも限らないのさ。そらその日の御飯をあたしに炊《た》かせまいと思って、そういう意地の悪い事をする人なんだからね。どうせ先へ寄って好《い》い事あないはずだあね」
 健三の耳にはこの話がただの滑稽《こっけい》としては聞こえなかった。その人と姉との間に起ったこんな交渉のなかに引絡《ひっから》まっている古い自分の影法師は、彼に取って可笑《おか》しいというよりもむしろ悲しいものであった。
「私《わたし》ゃ島田に二度会ったんですよ、姉さん。これから先また何時会うか分らないんだ」
「いいから知らん顔をして御出でよ。何度会ったって構わないじゃないか」
「しかしわざわざ彼所《あすこ》いらを通って、私の宅《うち》でも探しているんだか、また用があって通りがかりに偶然出ッくわしたんだか、それが分らないんでね」
 この疑問は姉にも解けなかった。彼女はただ健三に都合の好さそうな言葉を無
前へ 次へ
全343ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング