溢《あふ》れ出る戯曲的動作を恐れた。今更この女の遣《や》る芝居を事新らしく観《み》せられるのは、彼に取って堪えがたい苦痛であった。なるべくなら彼は先方の弱点を未然に防ぎたかった。それは彼女のためでもあり、また自分のためでもあった。
 彼は彼女から今までの経歴をあらまし聞き取った。その間には人世《じんせい》と切り離す事の出来ない多少の不幸が相応に纏綿《てんめん》しているらしく見えた。
 島田と別れてから二度目に嫁《かた》づいた波多野と彼女との間にも子が生れなかったので、二人は或所から養女を貰《もら》って、それを育てる事にした。波多野が死んで何年目にか、あるいはまだ生きている時分にか、それは御常もいわなかったが、その貰い娘に養子が来たのである。
 養子の商売は酒屋であった。店は東京のうちでも随分繁華な所にあった。どの位な程度の活計《くらし》をしていたものか能《よ》く分らないが、困ったとか、窮したとかいう弱い言葉は御常の口を洩《も》れなかった。
 その内養子が戦争に出て死んだので、女だけでは店が持ち切れなくなった。親子はやむをえずそれを畳んで、郊外近くに住んでいる或|身縁《みより》を頼りに、
前へ 次へ
全343ページ中209ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング