彼の通り過ぎるのを見送っていた。健三はその男の顔が彼の歩調につれて、少しずつ動いて回るのに気が着いた位であった。
彼はこの男に何年会わなかったろう。彼がこの男と縁を切ったのは、彼がまだ廿歳《はたち》になるかならない昔の事であった。それから今日《こんにち》までに十五、六年の月日が経っているが、その間彼らはついぞ一度も顔を合せた事がなかったのである。
彼の位地も境遇もその時分から見るとまるで変っていた。黒い髭《ひげ》を生《はや》して山高帽を被《かぶ》った今の姿と坊主頭の昔の面影《おもかげ》とを比べて見ると、自分でさえ隔世の感が起らないとも限らなかった。しかしそれにしては相手の方があまりに変らな過ぎた。彼はどう勘定しても六十五、六であるべきはずのその人の髪の毛が、何故《なぜ》今でも元の通り黒いのだろうと思って、心のうちで怪しんだ。帽子なしで外出する昔ながらの癖を今でも押通しているその人の特色も、彼には異な気分を与える媒介《なかだち》となった。
彼は固《もと》よりその人に出会う事を好まなかった。万一出会ってもその人が自分より立派な服装《なり》でもしていてくれれば好《い》いと思っていた。し
前へ
次へ
全343ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング