昔し自分を呼び捨《ず》てにした人から今となって鄭寧《ていねい》な挨拶《あいさつ》を受けるのは、彼に取って何の満足にもならなかった。小遣《こづかい》の財源のように見込まれるのは、自分を貧乏人と見傚《みな》している彼の立場から見て、腹が立つだけであった。
彼は念のために姉の意見を訊《たず》ねて見た。
「一体どの位困ってるんでしょうね、あの男は」
「そうさね。そう度々無心をいって来るようじゃ、随分苦しいのかも知れないね。だけど健ちゃんだってそうそう他《ひと》にばかり貢《みつ》いでいた日にゃ際限がないからね。いくら御金が取れたって」
「御金がそんなに取れるように見えますか」
「だって宅《うち》なんぞに比べれば、御前さん、御金がいくらでも取れる方じゃないか」
姉は自分の宅の活計《くらし》を標準にしていた。相変らず口数の多い彼女は、比田《ひだ》が月々貰《もら》うものを満足に持って帰った例《ためし》のない事や、俸給の少ない割に交際費の要《い》る事や、宿直が多いので弁当代だけでも随分の額《たか》に上《のぼ》る事や、毎月の不足はやっと盆暮の賞与で間に合わせている事などを詳しく健三に話して聞かせた。
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