。しかしそれは衣食住に関する物質的の問題に過ぎなかった。従って青年の答には彼の思わくと多少|喰《く》い違った点があった。
「いや君らは僕のように過去に煩らわされないから仕合せだというのさ」
青年は解しがたいという顔をした。
「あなただって些《ちっ》とも過去に煩らわされているようには見えませんよ。やっぱり己《おれ》の世界はこれからだという所があるようですね」
今度は健三の方が苦笑する番になった。彼はその青年に仏蘭西《フランス》のある学者が唱え出した記憶に関する新説を話した。
人が溺《おぼ》れかかったり、または絶壁から落《おち》ようとする間際に、よく自分の過去全体を一瞬間の記憶として、その頭に描き出す事があるという事実に、この哲学者は一種の解釈を下したのである。
「人間は平生《へいぜい》彼らの未来ばかり望んで生きているのに、その未来が咄嗟《とっさ》に起ったある危険のために突然|塞《ふさ》がれて、もう己は駄目だと事が極《きま》ると、急に眼を転じて過去を振り向くから、そこで凡《すべ》ての過去の経験が一度に意識に上《のぼ》るのだというんだね。その説によると」
青年は健三の紹介を面白そうに
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