な」
健三は腹の中でこう思った。夫の過去について、それほど知識のない細君の腹の中はなおの事であった。細君の同情は今その生家の方にばかり注がれていた。もとかなりの地位にあった彼女の父は、久しく浪人生活を続けた結果、漸々《だんだん》経済上の苦境に陥いって来たのである。
健三は時々宅《うち》へ話しに来る青年と対坐《たいざ》して、晴々しい彼らの様子と自分の内面生活とを対照し始めるようになった。すると彼の眼に映ずる青年は、みんな前ばかり見詰めて、愉快に先へ先へと歩いて行くように見えた。
或日彼はその青年の一人に向ってこういった。
「君らは幸福だ。卒業したら何になろうとか、何をしようとか、そんな事ばかり考えているんだから」
青年は苦笑した。そうして答えた。
「それは貴方《あなた》がた時代の事でしょう。今の青年はそれほど呑気《のんき》でもありません。何《なん》になろうとか、何《なに》をしようとか思わない事は無論ないでしょうけれども、世の中が、そう自分の思い通りにならない事もまた能《よ》く承知していますから」
なるほど彼の卒業した時代に比べると、世間は十倍も世知《せち》辛《がら》くなっていた
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