三の調子は半ば弁解的であった。半ば自嘲的《じちょうてき》であった。過去の牢獄生活の上に現在の自分を築き上げた彼は、その現在の自分の上に、是非とも未来の自分を築き上げなければならなかった。それが彼の方針であった。そうして彼から見ると正しい方針に違なかった。けれどもその方針によって前《さき》へ進んで行くのが、この時の彼には徒《いたず》らに老ゆるという結果より外に何物をも持ち来《きた》さないように見えた。
「学問ばかりして死んでしまっても人間は詰らないね」
「そんな事はありません」
彼の意味はついに青年に通じなかった。彼は今の自分が、結婚当時の自分と、どんなに変って、細君の眼に映るだろうかを考えながら歩いた。その細君はまた子供を生むたびに老けて行った。髪の毛なども気の引けるほど抜ける事があった。そうして今は既に三番目の子を胎内に宿していた。
三十
家《うち》へ帰ると細君は奥の六畳に手枕《てまくら》をしたなり寐《ね》ていた。健三はその傍《そば》に散らばっている赤い片端《きれはし》だの物指《ものさし》だの針箱だのを見て、またかという顔をした。
細君はよく寐る女であった。朝もことによると健三より遅く起きた。健三を送り出してからまた横になる日も少なくはなかった。こうしてあくまで眠りを貪《むさ》ぼらないと、頭が痺《しび》れたようになって、その日一日何事をしても判然《はっきり》しないというのが、常に彼女の弁解であった。健三はあるいはそうかも知れないと思ったり、またはそんな事があるものかと考えたりした。ことに小言《こごと》をいったあとで、寐られるときは、後の方の感じが強く起った。
「不貞寐《ふてね》をするんだ」
彼は自分の小言が、歇私的里性《ヒステリーしょう》の細君に対して、どう反応するかを、よく観察してやる代りに、単なる面当《つらあて》のために、こうした不自然の態度を彼女が彼に示すものと解釈して、苦々しい囁《つぶや》きを口の内で洩《も》らす事がよくあった。
「何故《なぜ》夜早く寐ないんだ」
彼女は宵っ張であった。健三にこういわれる度に、夜は眼が冴《さ》えて寐られないから起きているのだという答弁をきっとした。そうして自分の起きていたい時までは必ず起きて縫物の手をやめなかった。
健三はこうした細君の態度を悪《にく》んだ。同時に彼女の歇私的里《ヒステリー》を恐れた
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