通り抜けたその足音はすぐ茶の間へ這入《はい》った。
「また悪いの。驚ろいた。ちっとも知らなかった。何時《いつ》から」
短かい言葉が感投詞のようにまた質問のように、座敷に坐《すわ》っている二人の耳に響いた。その声は比田の推察通りやっぱり健三の兄であった。
「長さん、先刻《さっき》から待ってるんだ」
性急な比田はすぐ座敷から声を掛けた。女房の喘息《ぜんそく》などはどうなっても構わないといった風のその調子が、如何《いか》にもこの男の特性をよく現わしていた。「本当に手前勝手な人だ」とみんなからいわれるだけあって、彼はこの場合にも、自分の都合より外に何にも考えていないように見えた。
「今行きますよ」
長太郎《ちょうたろう》も少し癪《しゃく》だと見えて、なかなか茶の間から出て来なかった。
「重湯《おもゆ》でも少し飲んだら好《い》いでしょう。厭《いや》? でもそう何にも食べなくっちゃ身体《からだ》が疲れるだけだから」
姉が息苦しくって、受答えが出来かねるので、脊中《せなか》を撫《さす》っていた女が一口ごとに適宜な挨拶《あいさつ》をした。平生《へいぜい》健三よりは親しくその宅《うち》へ出入《でいり》する兄は、見馴《みな》れないこの女とも近付《ちかづき》と見えた。そのせいか彼らの応対は容易に尽きなかった。
比田はぷりっと膨《ふく》れていた。朝起きて顔を洗う時のように、両手で黒い顔をごしごし擦《こす》った。しまいに健三の方を向いて、小さな声でこんな事をいった。
「健ちゃんあれだから困るんですよ。口ばかり多くってね。こっちも手がないから仕方なしに頼むんだが」
比田の非難は明らかに健三の見知らない女の上に投げ掛けられた。
「何ですあの人は」
「そら梳手《すきて》の御勢《おせい》ですよ。昔し健ちゃんの遊《あす》びに来る時分、よくいたじゃありませんか、宅に」
「へええ」
健三には比田の家《うち》でそんな女に会った覚《おぼえ》が全くなかった。
「知りませんね」
「なに知らない事があるもんですか、御勢だもの。あいつはね、御承知の通りまことに親切で実意のある好い女なんだが、あれだから困るんです。喋舌《しゃべ》るのが病なんだから」
よく事情を知らない健三には、比田のいう事が、ただ自分だけに都合のいい誇張のように聞こえるばかりで、大した感銘も与えなかった。
姉はまた咳《せ》き出した。そ
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