には淋《さび》しかった。
「己《おれ》も実は面白くないんだよ」
「じゃ御止《およ》しになれば好いのに。つまらないわ、貴夫、今になってあんな人と交際うのは。一体どういう気なんでしょう、先方《むこう》は」
「それが己には些《ちっ》とも解らない。向《むこう》でもさぞ詰らないだろうと思うんだがね」
「御兄さんは何でもまた金にしようと思って遣って来たに違いないから、用心しなくっちゃいけないっていっていらっしゃいましたよ」
「しかし金は始めから断っちまったんだから、構わないさ」
「だってこれから先何をいい出さないとも限らないわ」
 細君の胸には最初からこうした予感が働らいていた。其所《そこ》を既に防ぎ止めたとばかり信じていた理に強い健三の頭に、微《かす》かな不安がまた新らしく萌《きざ》した。

     二十

 その不安は多少彼の仕事の上に即《つ》いて廻った。けれども彼の仕事はまたその不安の影をどこかへ埋《うず》めてしまうほど忙がしかった。そうして島田が再び健三の玄関へ現れる前に、月は早くも末になった。
 細君は鉛筆で汚ならしく書き込んだ会計簿を持って彼の前に出た。
 自分の外で働いて取る金額の全部を挙げて細君の手に委《ゆだ》ねるのを例にしていた健三には、それが意外であった。彼はいまだかつて月末《げつまつ》に細君の手から支出の明細書《めいさいがき》を突き付けられた例《ためし》がなかった。
「まあどうにかしているんだろう」
 彼は常にこう考えた。それで自分に金の要《い》る時は遠慮なく細君に請求した。月々買う書物の代価だけでも随分の多額に上《のぼ》る事があった。それでも細君は澄ましていた。経済に暗い彼は時として細君の放漫をさえ疑《うたぐ》った。
「月々の勘定はちゃんとして己《おれ》に見せなければいけないぜ」
 細君は厭《いや》な顔をした。彼女自身からいえば自分ほど忠実な経済家はどこにもいない気なのである。
「ええ」
 彼女の返事はこれぎりであった。そうして月末《つきずえ》が来ても会計簿はついに健三の手に渡らなかった。健三も機嫌の好《い》い時はそれを黙認した。けれども悪い時は意地になってわざと見せろと逼《せま》る事があった。そのくせ見せられるとごちゃごちゃしてなかなか解らなかった。たとい帳面づらは細君の説明を聴いて解るにしても、実際月に肴《さかな》をどれだけ食《くっ》たものか、また
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