えているような気もした。しかしその親類の人には、要《よう》さんという彼とおない年位な男に二、三遍会ったぎりで、他《ほか》のものに顔を合せた記憶はまるでなかった。
「芝というと、たしか御藤《おふじ》さんの妹さんに当る方《かた》の御嫁にいらしった所でしたね」
「いえ姉ですよ。妹ではないんです」
「はあ」
「要三《ようぞう》だけは死にましたが、あとの姉妹《きょうだい》はみんな好い所へ片付いてね、仕合せですよ。そら総領のは、多分知っておいでだろう、――へ行ったんです」
 ――という名前はなるほど健三に耳新しいものではなかった。しかしそれはもうよほど前に死んだ人であった。
「あとが女と子供ばかりで困るもんだから、何かにつけて、叔父《おじ》さん叔父さんて重宝がられましてね。それに近頃は宅《うち》に手入《ていれ》をするんで監督の必要が出来たものだから、殆ど毎日のように此所《ここ》の前を通ります」
 健三は昔この男につれられて、池《いけ》の端《はた》の本屋で法帖《ほうじょう》を買ってもらった事をわれ知らず思い出した。たとい一銭でも二銭でも負けさせなければ物を買った例《ためし》のないこの人は、その時も僅《わず》か五厘の釣銭《つり》を取るべく店先へ腰を卸して頑として動かなかった。董其昌《とうきしょう》の折手本《おりでほん》を抱えて傍《そば》に佇立《たたず》んでいる彼に取ってはその態度が如何《いか》にも見苦しくまた不愉快であった。
「こんな人に監督される大工や左官はさぞ腹の立つ事だろう」
 健三はこう考えながら、島田の顔を見て苦笑を洩《も》らした。しかし島田は一向それに気が付かないらしかった。

     十七

「でも御蔭さまで、本を遺《のこ》して行ってくれたもんですから、あの男が亡くなっても、あとはまあ困らないで、どうにかこうにか遣《や》って行けるんです」
 島田は――の作った書物を世の中の誰でもが知っていなければならないはずだといった風の口調でこういった。しかし健三は不幸にしてその著書の名前を知らなかった。字引《じびき》か教科書だろうとは推察したが、別に訊《き》いて見る気にもならなかった。
「本というものは実に有難いもので、一つ作って置くとそれが何時までも売れるんですからね」
 健三は黙っていた。仕方なしに吉田が相手になって、何でも儲《もう》けるには本に限るような事をいった。
「御
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