いう事を思い出した。しかし彼は何にもいわずにまた顔を背けてしまった。それで細君の胸には夫の心持が少しも映らなかった。
「あなたどうなすったんです」
「風邪を引いたんだって、医者がいうじゃないか」
「そりゃ解ってます」
会話はそれで途切れてしまった。細君は厭《いや》な顔をしてそれぎり部屋を出て行った。健三は手を鳴らしてまた細君を呼び戻した。
「己《おれ》がどうしたというんだい」
「どうしたって、――あなたが御病気だから、私《わたくし》だってこうして氷嚢を更《か》えたり、薬を注《つ》いだりして上げるんじゃありませんか。それをあっちへ行けの、邪魔だのって、あんまり……」
細君は後をいわずに下を向いた。
「そんな事をいった覚はない」
「そりゃ熱の高い時|仰《おっ》しゃった事ですから、多分覚えちゃいらっしゃらないでしょう。けれども平生《へいぜい》からそう考えてさえいらっしゃらなければ、いくら病気だって、そんな事を仰しゃる訳がないと思いますわ」
こんな場合に健三は細君の言葉の奥に果してどの位な真実が潜んでいるだろうかと反省して見るよりも、すぐ頭の力で彼女を抑えつけたがる男であった。事実の問題を離れて、単に論理の上から行くと、細君の方がこの場合も負けであった。熱に浮かされた時、魔睡薬に酔った時、もしくは夢を見る時、人間は必ずしも自分の思っている事ばかり物語るとは限らないのだから。しかしそうした論理は決して細君の心を服するに足りなかった。
「よござんす。どうせあなたは私を下女同様に取り扱うつもりでいらっしゃるんだから。自分一人さえ好ければ構わないと思って、……」
健三は座を立った細君の後姿を腹立たしそうに見送った。彼は論理の権威で自己を佯《いつわ》っている事にはまるで気が付かなかった。学問の力で鍛え上げた彼の頭から見ると、この明白な論理に心底《しんそこ》から大人しく従い得ない細君は、全くの解らずやに違なかった。
十一
その晩細君は土鍋《どなべ》へ入れた粥《かゆ》をもって、また健三の枕元に坐《すわ》った。それを茶碗《ちゃわん》に盛りながら、「御起《おおき》になりませんか」と訊《き》いた。
彼の舌にはまだ苔《こけ》が一杯生えていた。重苦しいような厚ぼったいような口の中へ物を入れる気には殆《ほと》んどなれなかった。それでも彼は何故《なぜ》だか床の上に起き返って、
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