た。
仕事を中絶された彼はぼんやり烟草《タバコ》を吹かし始めた。ところへ細君がまた入って来た。
「帰ったかい」
「ええ」
細君は夫の前に広げてある赤い印《しるし》の附いた汚ならしい書きものを眺めた。夜中に何度となく赤ん坊のために起こされる彼女の面倒が健三に解らないように、この半紙の山を綿密に読み通す夫の困難も細君には想像出来なかった。――
調べ物を度外に置いた彼女は、坐《すわ》るとすぐ夫に訊《たず》ねた。――
「また何かそういって来る気でしょうね。執《しつ》ッ濃《こ》い」
「暮のうちにどうかしようというんだろう。馬鹿らしいや」
細君はもう島田を相手にする必要がないと思った。健三の心はかえって昔の関係上多少の金を彼に遣《や》る方に傾いていた。しかし話は其所《そこ》まで発展する機会を得ずによそへ外《そ》れてしまった。
「御前の宅《うち》の方はどうだい」
「相変らず困るんでしょう」
「あの鉄道会社の社長の口はまだ出来ないのかい」
「あれは出来るんですって。けれどもそうこっちの都合の好いように、ちょっくらちょいとという訳には行かないんでしょう」
「この暮のうちには六《む》ずかしいのかね」
「とても」
「困るだろうね」
「困っても仕方がありませんわ。何もかもみんな運命なんだから」
細君は割合に落付《おちつ》いていた。何事も諦《あき》らめているらしく見えた。
九十五
見知らない名刺の持参者が、健三の指定した通り、中一日《なかいちにち》置いて再び彼の玄関に現れた時、彼はまだささくれた洋筆先《ペンさき》で、粗末な半紙の上に、丸だの三角だのと色々な符徴を附けるのに忙がしかった。彼の指頭《ゆびさき》は赤い印気《インキ》で所々汚《よご》れていた。彼は手も洗わずにそのまま座敷へ出た。
島田のために来たその男は、前の吉田に比べると少し型を異《こと》にしていたが、健三からいえば、双方とも殆《ほと》んど差別のない位懸け離れた人間であった。
彼は縞《しま》の羽織《はおり》に角帯《かくおび》を締めて白足袋《しろたび》を穿《は》いていた。商人とも紳土とも片の付かない彼の様子なり言葉遣なりは、健三に差配という一種の人柄を思い起させた。彼は自分の身分や職業を打ら明ける前に、卒然として健三に訊《き》いた。――
「貴方《あなた》は私《わたくし》の顔を覚えて御出《おいで》ですか」
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