だろう。事状に通じない健三にはこの疑問さえ解けなかった。
「一時必要な株数だけを私の名儀に書換てもらうんです」
健三は父の言葉に疑を挟むほど、彼の才能を見縊《みくび》っていなかった。彼と彼の家族とを目下の苦境から解脱《げだつ》させるという意味においても、その成功を希望しない訳に行かなかった。しかし依然として元の立場に立っている事も改める訳に行かなかった。彼の挨拶《あいさつ》は形式的であった。そうして幾分か彼の心の柔らかい部分をわざと堅苦しくした。老巧な父はまるで其所に注意を払わないように見えた。
「しかし困る事に、これは今が今という訳に行かないのです。時機があるものですからな」
彼は懐からまた一枚の辞令見たようなものを出して健三に見せた。それには或保険会社が彼に顧問を嘱託するという文句と、その報酬として月々彼に百円を贈与するという条件が書いてあった。
「今御話した一方の方が出来たらこれはやめるか、または出来ても続けてやるか、その辺はまだ分らないんですが、とにかく百円でも当座の凌《しの》ぎにはなりますから」
昔し彼が政府の内意で或官職を抛《なげう》った時、当路の人は山陰道筋のある地方の知事なら転任させても好《よ》いという条件を付けた事があった。しかし彼は断然それを斥《しり》ぞけた。彼が今大して隆盛でもない保険会社から百円の金を貰《もら》って、別に厭《いや》な顔をしないのも、やはり境遇の変化が彼の性格に及ぼす影響に相違なかった。
こうした懸け隔てのない父の態度は、ややともすると健三を自分の立場から前へ押し出そうとした。その傾向を意識するや否や彼はまた後戻りをしなければならなかった。彼の自然は不自然らしく見える彼の態度を倫理的に認可したのである。
七十七
細君の父は事務家であった。ややともすると仕事本位の立場からばかり人を評価したがった。乃木《のぎ》将軍が一時台湾総督になって間もなくそれをやめた時、彼は健三に向ってこんな事をいった。――
「個人としての乃木さんは義に堅く情に篤《あつ》く実に立派なものです。しかし総督としての乃木さんが果して適任であるかどうかという問題になると、議論の余地がまだ大分《だいぶ》あるように思います。個人の徳は自分に親しく接触する左右のものには能《よ》く及ぶかも知れませんが、遠く離れた被治者に利益を与えようとするには不充分で
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