》はなかった。
七十六
けれどもその次に細君の父が健三を訪問した時には、二人の関係がもう変っていた。自《みずか》ら進んで母に旅費を用立《ようだ》った女婿《むすめむこ》は、一歩|退《しり》ぞかなければならなかった。彼は比較的遠い距離に立って細君の父を眺めた。しかし彼の眼に漂よう色は冷淡でも無頓着《むとんじゃく》でもなかった。むしろ黒い瞳《ひとみ》から閃《ひら》めこうとする反感の稲妻であった。力《つと》めてその稲妻を隠そうとした彼は、やむをえずこの鋭どく光るものに冷淡と無頓着の仮装を着せた。
父は悲境にいた。まのあたり見る父は鄭寧《ていねい》であった。この二つのものが健三の自然に圧迫を加えた。積極的に突掛《つっかか》る事の出来ない彼は控えなければならなかった。単なる無愛想の程度で我慢すべく余儀なくされた彼には、相手の苦しい現状と慇懃《いんぎん》な態度とが、かえってわが天真の流露を妨げる邪魔物になった。彼からいえば、父はこういう意味において彼を苦しめに来たと同じ事であった。父からいえば、普通の人としてさえ不都合に近い愚劣な応対ぶりを、自分の女婿に見出すのは、堪えがたい馬鹿らしさに違なかった。前後と関係のないこの場だけの光景を眺める傍観者の眼にも健三はやはり馬鹿であった。それを承知している細君にすら、夫は決して賢こい男ではなかった。
「私《わたくし》も今度という今度は困りました」
最初にこういった父は健三からはかばかしい返事すら得なかった。
父はやがて財界で有名な或人の名を挙げた。その人は銀行家でもあり、また実業家でもあった。
「実はこの間ある人の周旋で会って見ましたが、どうか旨《うま》く出来そうですよ。三井《みつい》と三菱《みつびし》を除けば日本ではまあ彼所《あすこ》位なもんですから、使用人になったからといって、別に私の体面に関わる事もありませんし、それに仕事をする区域も広いようですから、面白く働けるだろうと思うんです」
この財力家によって細君の父に予約された位地というのは、関西にある或《ある》私立の鉄道会社の社長であった。会社の株の大部分を一人で所有しているその人は、自分の意志のままに、其所《そこ》の社長を選ぶ特権を有していたのである。しかし何十株か何百株かの持主として、予《あらか》じめ資格を作って置かなければならない父は、どうして金の工面をする
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