変ですね」
世事に疎い彼は、細君の父がどこへ頼んでも、もう判を押してくれるものがないので、しまいに仕方なしに彼の所へ持って来たのだという明白な事情さえ推察し得なかった。彼は親しく交際《つきあ》った事もないその銀行家からそれほど信用されるのがかえって怖くなった。
「どんな目に逢わされるか分りゃしない」
彼の心には未来における自己の安全という懸念が充分に働らいた。同時にただそれだけの利害心でこの問題を片付けてしまうほど彼の性格は単純に出来ていなかった。彼の頭が彼に適当な解決を与えるまで彼は逡巡《しゅんじゅん》しなければならなかった。その解決が最後に来た時ですら、彼はそれを細君の父の前に持ち出すのに多大の努力を払った。
「印を捺《お》す事はどうも危険ですからやめたいと思います。しかしその代り私の手で出来るだけの金を調《ととの》えて上げましょう。無論貯蓄のない私の事だから、調えるにしたところで、どうせどこからか借りるより外に仕方がないのですが、出来るなら証文を書いたり判を押したりするような形式上の手続きを踏む金は借りたくないのです。私の有《も》っている狭い交際の方面で安全な金を工面した方が私には心持が好いのですから、まずそっちの方を一つ中《あた》って見ましょう。無論|御入用《おいりよう》だけの額《たか》は駄目です。私の手で調のえる以上、私の手で返さなければならないのは無論の事ですから、身分不相当の借金は出来ません」
いくらでも融通が付けば付いただけ助かるといった風の苦しい境遇に置かれた細君の父は、それより以上健三を強《し》いなかった。
「どうぞそれじゃ何分」
彼は健三の着古した外套に身を包んで、寒い日の下を歩いて帰って行った。書斎で話を済せた健三は、玄関からまた同じ書斎に戻ったなり細君の顔を見なかった。細君も父を玄関に送り出した時、夫と並んで沓脱《くつぬぎ》の上に立っただけで、遂に書斎へは入って来なかった。金策の事は黙々のうちに二人に了解されていながら、遂に二人の間の話題に上《のぼ》らずにしまった。
けれども健三の心には既に責任の荷があった。彼はそれを果すために動かなければならなかった。彼は世帯を持つときに、火鉢《ひばち》や烟草盆《タバコぼん》を一所に買って歩いてもらった友達の宅《うち》へまた出掛けた。
「金を貸してくれないかね」
彼は藪《やぶ》から棒に質問を掛
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