出入《でいり》の多いこの家の用事には、それだけの召仕《めしつかい》が必要かも知れなかったが、もし経済が許さないとすれば、その必要も充《み》たされるはずはなかった。
 健三が外国から帰って来た時ですら、細君の父はさほど困っているようには見えなかった。彼が駒込《こまごめ》の奥に住居《すまい》を構えた当座、彼の新宅を訪ねた父は、彼に向ってこういった。――
「まあ自分の宅《うち》を有《も》つという事が人間にはどうしても必要ですね。しかしそう急にも行くまいから、それは後廻しにして、精々《せいぜい》貯蓄を心掛けたら好《い》いでしょう。二、三千円の金を有っていないと、いざという場合に、大変困るもんだから。なに千円位出来ればそれで結構です。それを私《わたし》に預けて御置きなさると、一年位経つうちには、じき倍にして上げますから」
 貨殖の道に心得の足りない健三はその時不思議の感に打たれた。
「どうして一年のうちに千円が二千円になり得るだろう」
 彼の頭ではこの疑問の解決がとても付かなかった。利慾を離れる事の出来ない彼は、驚愕《きょうがく》の念を以て、細君の父にのみあって、自分には全く欠乏している、一種の怪力《かいりょく》を眺めた。しかし千円|拵《こしら》えて預ける見込の到底付かない彼は、細君の父に向ってその方法を訊《き》く気にもならずについ今日《こんにち》まで過ぎたのである。
「そんなに貧乏するはずがないだろうじゃないか。何ぼ何だって」
「でも仕方がありませんわ、廻《まわ》り合《あわ》せだから」
 産という肉体の苦痛を眼前に控えている細君の気息遣《いきづかい》はただでさえ重々《おもおも》しかった。健三は黙って気の毒そうなその腹と光沢《つや》の悪いその頬《ほお》とを眺めた。
 昔し田舎で結婚した時、彼女の父がどこからか浮世絵風の美人を描《か》いた下等な団扇《うちわ》を四、五本買って持って来たので、健三はその一本をぐるぐる廻しながら、随分俗なものだと評したら、父はすぐ「所相応だろう」と答えた事があったが、健三は今自分がその地方で作った外套を細君の父に遣って、「阿爺《おやじ》相応だろう」という気にはとてもなれなかった。いくら困ったってあんなものをと思うとむしろ情《なさけ》なくなった。
「でもよく着られるね」
「見っともなくっても寒いよりは好いでしょう」
 細君は淋《さび》しそうに笑った。

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