の冬に変化していた。細い燈火《ともしび》の影を凝《じっ》と見詰めていると、灯《ひ》は動かないで風の音だけが烈《はげ》しく雨戸に当った。ひゅうひゅうと樹木の鳴るなかに、夫婦は静かな洋燈《あかり》を間に置いて、しばらく森《しん》と坐《すわ》っていた。
七十二
「今日《きょう》父が来ました時、外套《がいとう》がなくって寒そうでしたから、貴方《あなた》の古いのを出して遣《や》りました」
田舎《いなか》の洋服屋で拵《こしら》えたその二重廻《にじゅうまわ》しは、殆《ほと》んど健三の記憶から消えかかっている位古かった。細君がどうしてまたそれを彼女の父に与えたものか、健三には理解出来なかった。
「あんな汚ならしいもの」
彼は不思議というよりもむしろ恥かしい気がした。
「いいえ。喜こんで着て行きました」
「御父《おとっ》さんは外套を有《も》っていないのかい」
「外套どころじゃない、もう何にも有っちゃいないんです」
健三は驚ろいた。細い灯《ひ》に照らされた細君の顔が急に憐《あわ》れに見えた。
「そんなに窮《こま》っているのかなあ」
「ええ。もうどうする事も出来ないんですって」
口数の寡《すく》ない細君は、自分の生家に関する詳しい話を今まで夫の耳に入れずに通して来たのである。職に離れて以来の不如意を薄々《うすうす》知っていながら、まさかこれほどとも思わずにいた健三は、急に眼を転じてその人の昔を見なければならなかった。
彼は絹帽《シルクハット》にフロックコートで勇ましく官邸の石門《せきもん》を出て行く細君の父の姿を鮮やかに思い浮べた。堅木《かたぎ》を久《きゅう》の字形《じがた》に切り組んで作ったその玄関の床《ゆか》は、つるつる光って、時によると馴《な》れない健三の足を滑らせた。前に広い芝生《しばふ》を控えた応接間を左へ折れ曲ると、それと接続《つづ》いて長方形の食堂があった。結婚する前健三は其所《そこ》で細君の家族のものと一緒に晩餐《ばんさん》の卓に着いた事をいまだに覚えていた。二階には畳が敷いてあった。正月の寒い晩、歌留多《カルタ》に招かれた彼は、そのうちの一間で暖たかい宵を笑い声の裡《うち》に更《ふか》した記憶もあった。
西洋館に続いて日本建《にほんだて》も一棟《ひとむね》付いていたこの屋敷には、家族の外に五人の下女《げじょ》と二人の書生が住んでいた。職務柄客の
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