の要《い》る時も他人、病気の時も他人、それじゃただ一所《いっしょ》にいるだけじゃないか」
 健三の謎《なぞ》は容易に解けなかった。考える事の嫌《きらい》な細君はまた何という評も加えなかった。
「しかし己《おれ》たち夫婦も世間から見れば随分変ってるんだから、そう他《ひと》の事ばかりとやかくいっちゃいられないかも知れない」
「やっぱり同なじ事ですわ。みんな自分だけは好いと思ってるんだから」
 健三はすぐ癪《しゃく》に障った。
「御前でも自分じゃ好いつもりでいるのかい」
「いますとも。貴夫《あなた》が好いと思っていらっしゃる通りに」
 彼らの争いは能《よ》くこういう所から起った。そうして折角穏やかに静まっている双方の心を攪《か》き乱した。健三はそれを慎みの足りない細君の責《せめ》に帰した。細君はまた偏窟で強情な夫のせいだとばかり解釈した。
「字が書けなくっても、裁縫《しごと》が出来なくっても、やっぱり姉のような亭主孝行な女の方が己は好きだ」
「今時そんな女がどこの国にいるもんですか」
 細君の言葉の奥には、男ほど手前勝手なものはないという大きな反感が横《よこた》わっていた。

     七十一

 筋道の通った頭を有《も》っていない彼女には存外新らしい点があった。彼女は形式的な昔風の倫理観に囚《とら》われるほど厳重な家庭に人とならなかった。政治家を以て任じていた彼女の父は、教育に関して殆《ほと》んど無定見であった。母はまた普通の女のように八釜《やかま》しく子供を育て上る性質《たち》でなかった。彼女は宅《うち》にいて比較的自由な空気を呼吸した。そうして学校は小学校を卒業しただけであった。彼女は考えなかった。けれども考えた結果を野性的に能《よ》く感じていた。
「単に夫という名前が付いているからというだけの意味で、その人を尊敬しなくてはならないと強《し》いられても自分には出来ない。もし尊敬を受けたければ、受けられるだけの実質を有った人間になって自分の前に出て来るが好《い》い。夫という肩書などはなくっても構わないから」
 不思議にも学問をした健三の方はこの点においてかえって旧式であった。自分は自分のために生きて行かなければならないという主義を実現したがりながら、夫のためにのみ存在する妻を最初から仮定して憚《はば》からなかった。
「あらゆる意味から見て、妻は夫に従属すべきものだ」

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