間を費やした。わざわざ辞職して貰《もら》った金は何時の間にかもうなくなっていた。迂闊《うかつ》な彼は不思議そうな眼を開いて、索然たる彼の新居を見廻した。そうして外国にいる時、衣服を作る必要に逼《せま》られて、同宿の男から借りた金はどうして返して好《い》いか分らなくなってしまったように思い出した。
 そこへその男からもし都合が付くなら算段してもらいたいという催促状が届いた。健三は新らしく拵《こしら》えた高い机の前に坐《すわ》って、少時《しばらく》彼の手紙を眺めていた。
 僅《わずか》の間とはいいながら、遠い国で一所《いっしょ》に暮したその人の記憶は、健三に取って淡い新しさを帯びていた。その人は彼と同じ学校の出身であった。卒業の年もそう違わなかった。けれども立派な御役人として、ある重要な事項取調のためという名義の下《もと》に、官命で遣《や》って来たその人の財力と健三の給費との間には、殆《ほと》んど比較にならないほどの懸隔があった。
 彼は寝室の外に応接間も借りていた。夜になると繻子《しゅす》で作った刺繍《ぬいとり》のある綺麗《きれい》な寝衣《ナイトガウン》を着て、暖かそうに暖炉の前で書物などを読んでいた。北向の狭苦しい部屋で押し込められたように凝《じっ》と竦《すく》んでいる健三は、ひそかに彼の境遇を羨《うらや》んだ。
 その健三には昼食《ちゅうじき》を節約した憐《あわ》れな経験さえあった。ある時の彼は表へ出た帰掛《かえりがけ》に途中で買ったサンドウィッチを食いながら、広い公園の中を目的《めあて》もなく歩いた。斜めに吹きかける雨を片々《かたかた》の手に持った傘で防《よ》けつつ、片々の手で薄く切った肉と麺麭《パン》を何度にも頬張《ほおば》るのが非常に苦しかった。彼は幾たびか其所《そこ》にあるベンチへ腰を卸《おろ》そうとしては躊躇《ちゅうちょ》した。ベンチは雨のために悉《ことごと》く濡《ぬ》れていたのである。
 ある時の彼は町で買って来たビスケットの缶を午《ひる》になると開いた。そうして湯も水も呑《の》まずに、硬くて脆《もろ》いものをぼりぼり噛《か》み摧《くだ》いては、生唾《なまつばき》の力で無理に嚥《の》み下《くだ》した。
 ある時の彼はまた馭者《ぎょしゃ》や労働者と一所に如何《いかが》わしい一膳飯屋《いちぜんめしや》で形《かた》ばかりの食事を済ました。其所の腰掛の後部《う
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