なかった。彼はたった一人で、日中の勉強につづく涼しい夜を散歩に費やした。そうして継布《つぎ》のあたった青い蚊帳《かや》の中に入って寐《ね》た。
 一カ月あまりすると細君が突然遣って来た。その時健三は日のかぎった夕暮の空の下に、広くもない庭先を逍遥《あちこち》していた。彼の歩みが書斎の縁側の前へ来た時、細君は半分朽ち懸けた枝折戸《しおりど》の影から急に姿を現わした。
「貴夫《あなた》故《もと》のようになって下さらなくって」
 健三は細君の穿《は》いている下駄《げた》の表が変にささくれて、その後《うしろ》の方が如何《いか》にも見苦しく擦《す》り減らされているのに気が付いた。彼は憐《あわ》れになった。紙入の中から三枚の一円紙幣を出して細君の手に握らせた。
「見っともないからこれで下駄でも買ったら好いだろう」
 細君が帰ってから幾日《いくか》目か経った後《のち》、彼女の母は始めて健三を訪ずれた。用事は細君が健三に頼んだのと大同小異で、もう一遍彼らを引取ってくれという主意を畳の上で布衍《ふえん》したに過ぎなかった。既に本人に帰りたい意志があるのを拒絶するのは、健三から見ると無情な挙動《ふるまい》であった。彼は一も二もなく承知した。細君はまた子供を連れて駒込《こまごめ》へ帰って来た。しかし彼女の態度は里へ行く前と毫《ごう》も違っていなかった。健三は心のうちで彼女の母に騙《だま》されたような気がした。
 こうした夏中の出来事を自分だけで繰り返して見るたびに、彼は不愉快になった。これが何時まで続くのだろうかと考えたりした。

     五十六

 同時に島田はちょいちょい健三の所へ顔を出す事を忘れなかった。利益の方面で一度手掛りを得た以上、放したらそれっきりだという懸念がなおさら彼を蒼蠅《うるさ》くした。健三は時々書斎に入って、例の紙入を老人の前に持ち出さなければならなかった。
「好《い》い紙入ですね。へええ。外国のものはやっぱりどこか違いますね」
 島田は大きな二つ折を手に取って、さも感服したらしく、裏表を打返して眺めたりした。
「失礼ながらこれでどの位します。あちらでは」
「たしか十|志《シリング》だったと思います。日本の金にすると、まあ五円位なものでしょう」
「五円?――五円は随分好い価《ね》ですね。浅草《あさくさ》の黒船町《くろふねちょう》に古くから私《わたし》の知ってる袋
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