も御邪魔をしました。御忙がしいところを。いずれまたその内」
細君の病気については何事もいわなかった彼は、沓脱《くつぬぎ》へ下りてからまた健三の方を振り向いた。
「夜分なら大抵御暇ですか」
健三は生返事をしたなり立っていた。
「実は少し御話ししたい事があるんですが」
健三は何の御用ですかとも聞き返さなかった。老人は健三の手に持った暗い灯影《ひかげ》から、鈍い眼を光らしてまた彼を見上げた。その眼にはやっぱりどこかに隙があったら彼の懐に潜《もぐ》り込もうという人の悪い厭《いや》な色か動いていた。
「じゃ御免」
最後に格子《こうし》を開けて外へ出た島田はこういってとうとう暗がりに消えた。健三の門には軒燈さえ点《つ》いていなかった。
五十
健三はすぐ奥へ来て細君の枕元に立った。
「どうかしたのか」
細君は眼を開けて天井を見た。健三は蒲団《ふとん》の横からまたその眼を見下《みおろ》した。
襖《ふすま》の影に置かれた洋燈《ランプ》の灯《ひ》は客間のよりも暗かった。細君の眸《ひとみ》がどこに向って注がれているのか能《よ》く分らない位暗かった。
「どうかしたのか」
健三は同じ問をまた繰り返さなければならなかった。それでも細君は答えなかった。
彼は結婚以来こういう現象に何度となく遭遇した。しかし彼の神経はそれに慣らされるには余りに鋭敏過ぎた。遭遇するたびに、同程度の不安を感ずるのが常であった。彼はすぐ枕元に腰を卸した。
「もうあっちへ行っても好《い》い。此所《ここ》には己《おれ》がいるから」
ぼんやり蒲団の裾に坐《すわ》って、退屈そうに健三の様子を眺めていた下女《げじょ》は無言のまま立ち上った。そうして「御休みなさい」と敷居の所へ手を突いて御辞儀をしたなり襖を立て切った。後には赤い筋を引いた光るものが畳の上に残った。彼は眉《まゆ》を顰《ひそ》めながら下女の振り落して行った針を取り上げた。何時もなら婢《おんな》を呼び返して小言《こごと》をいって渡すところを、今の彼は黙って手に持ったまま、しばらく考えていた。彼はしまいにその針をぷつりと襖に立てた。そうしてまた細君の方へ向き直った。
細君の眼はもう天井を離れていた。しかし判然《はっきり》どこを見ているとも思えなかった。黒い大きな瞳子《ひとみ》には生きた光があった。けれども生きた働きが欠けていた。彼女は魂と
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