君は笑いながら訊《き》いた。
「李鴻章の掛物をどうとかいってたのね」
「己に遣《や》ろうかっていうんだ」
「御止《およ》しなさいよ。そんな物を貰ってまた後からどんな無心を持ち懸けられるかも知れないわ。遣るっていうのは、大方口の先だけなんでしょう。本当は買ってくれっていう気なんですよ、きっと」
夫婦には李鴻章の掛物よりもまだ外に買いたいものが沢山あった。段々大きくなって来る女の子に、相当の着物を着せて表へ出す事の出来ないのも、細君からいえば、夫の気の付かない心配に違なかった。二円五十銭の月賦で、この間拵えた雨合羽《あまがっぱ》の代を、月々洋服屋に払っている夫も、あまり長閑《のどか》な心持になれようはずがなかった。
「復籍の事は何にもいい出さなかったようですね」
「うん何にもいわない。まるで狐《きつね》に抓《つま》まれたようなものだ」
始めからこっちの気を引くためにわざとそんな突飛《とっぴ》な要求を持ち出したものか、または真面目《まじめ》な懸合《かけあい》として、それを比田《ひだ》へ持ち込んだ後《あと》、比田からきっぱり断られたので、始めて駄目だと覚《さと》ったものか、健三にはまるで見当が付かなかった。
「どっちでしょう」
「到底解らないよ、ああいう人の考えは」
島田は実際どっちでも遣りかねない男であった。
彼は三日ほどしてまた健三の玄関を開けた。その時健三は書斎に灯火《あかり》を点《つ》けて机の前に坐《すわ》っていた。丁度彼の頭に思想上のある問題が一筋の端緒《いとくち》を見せかけた所であった。彼は一図にそれを手近まで手繰《たぐ》り寄せようとして骨を折った。彼の思索は突然|截《た》ち切られた。彼は苦い顔をして室《へや》の入口に手を突いた下女《げじょ》の方を顧みた。
「何もそう度々《たびたび》来て、他《ひと》の邪魔をしなくっても好さそうなものだ」
彼は腹の中でこう呟《つぶ》やいた。断然面会を謝絶する勇気を有《も》たない彼は、下女を見たなり少時《しばらく》黙っていた。
「御通し申しますか」
「うん」
彼は仕方なしに答えた。それから「御奥《おく》さんは」と訊《たず》ねた。
「少し御気分が悪いと仰《おっ》しゃって先刻《さっき》から伏せっていらっしゃいます」
細君の寐《ね》るときは歇私的里《ヒステリー》の起った時に限るように健三には思えてならなかった。彼は漸《ようや
前へ
次へ
全172ページ中78ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング