て来た。健三に対して過去の己《おの》れに返ろう返ろうとする試みを遂に断念してしまった。
彼は室《へや》の内をきょろきょろ見廻し始めた。殺風景を極めたその室の中には生憎《あいにく》額も掛物も掛っていなかった。
「李鴻章《りこうしょう》の書は好きですか」
彼は突然こんな問を発した。健三は好きとも嫌《きらい》ともいい兼《かね》た。
「好きなら上げても好《よ》ござんす。あれでも価値《ねうち》にしたら今じゃよっぽどするでしょう」
昔し島田は藤田東湖《ふじたとうこ》の偽筆に時代を着けるのだといって、白髪蒼顔万死余云々《はくはつそうがんばんしのようんぬん》と書いた半切《はんせつ》の唐紙《とうし》を、台所の竈《へっつい》の上に釣るしていた事があった。彼の健三にくれるという李鴻章も、どこの誰が書いたものか頗《すこぶ》る怪しかった。島田から物を貰う気の絶対になかった健三は取り合わずにいた。島田は漸《ようや》く帰った。
四十七
「何しに来たんでしょう、あの人は」
目的《あて》なしにただ来るはずがないという感じが細君には強くあった。健三も丁度同じ感じに多少支配されていた。
「解らないね、どうも。一体|魚《さかな》と獣《けだもの》ほど違うんだから」
「何が」
「ああいう人と己《おれ》などとはさ」
細君は突然自分の家族と夫との関係を思い出した。両者の間には自然の造った溝があって、御互を離隔していた。片意地な夫は決してそれを飛び超えてくれなかった。溝を拵《こしら》えたものの方で、それを埋めるのが当然じゃないかといった風の気分で何時までも押し通していた。里ではまた反対に、夫が自分の勝手でこの溝を掘り始めたのだから、彼の方で其所《そこ》を平《たいら》にしたら好かろうという考えを有《も》っていた。細君の同情は無論自分の家族の方にあった。彼女はわが夫を世の中と調和する事の出来ない偏窟な学者だと解釈していた。同時に夫が里と調和しなくなった源因の中《うち》に、自分が主な要素として這入《はい》っている事も認めていた。
細君は黙って話を切り上げようとした。しかし島田の方にばかり気を取られていた健三にはその意味が通じなかった。
「御前はそう思わないかね」
「そりゃあの人と貴夫《あなた》となら魚と獣位違うでしょう」
「無論外の人と己と比較していやしない」
話はまた島田の方へ戻って来た。細
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