が欺《あざむ》かれざるを難有《ありがた》く思ふのである。さうして其《その》文の拙《せつ》なれば拙なる丈|真《まこと》の反射として意を安んずるのである。
 其上《そのうへ》艇長の書いた事には嘘を吐《つ》く必要のない事実が多い。艇が何度の角度で沈んだ、ガソリンが室内に充ちた、チエインが切れた、電燈が消えた。此等《これら》の現象に自己広告は平時と雖《いへ》ども無益である。従つて彼は艇長としての報告を作らんがために、凡《すべ》ての苦悶を忍んだので、他《ひと》によく思はれるがために、徒《いたづ》らな言句《げんく》を連ねたのでないと云ふ結論に帰着する。又|其《その》報告が実際当局者の参考になつた効果から見ても、彼は自分のために書き残したのでなくて他《ひと》の為に苦痛に堪へたと云ふ証拠さへ立つ。
 広瀬中佐の詩に至つては毫《がう》も以上の条件を具《そな》へてゐない。已《やむ》を得ずして拙《せつ》な詩を作つたと云ふ痕跡はなくつて、已《やむ》を得るにも拘《かゝ》はらず俗な句を並べたといふ疑ひがある。艇長は自分が書かねばならぬ事を書き残した。又自分でなければ書けない事を書き残した。中佐の詩に至つては作らな
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング