長谷川君と余
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)長谷川《はせがわ》君

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)学問の結果|自《おのずか》らここに至った

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「蚌−虫」、第3水準1−14−6]
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 長谷川《はせがわ》君と余は互に名前を知るだけで、その他には何の接触もなかった。余が入社の当時すらも、長谷川君がすでにわが朝日の社員であるという事を知らなかったように記憶している。それを知り出したのは、どう云う機会であったか今は忘却してしまった。とにかく入社してもしばらくの間は顔を合わせずにいた。しかも長谷川君の家《うち》は西片町《にしかたまち》で、余も当時は同じ阿部《あべ》の屋敷内《やしきうち》に住んでいたのだから、住居《すまい》から云えばつい鼻の先である。だから本当を云うと、こっちから名刺でも持って訪問するのが世間並《せけんなみ》の礼であったんだけれども、そこをつい怠《なま》けて、どこが長谷川君の家《いえ》だか聞き合わせもせずに横着をきめてしまった。すると間もなく大阪から鳥居《とりい》君が来たので、主筆《しゅひつ》の池辺《いけべ》君が我々十余人を有楽町の倶楽部《クラブ》へ呼んで御馳走《ごちそう》をしてくれた。余は新人の社員として、その時始めてわが社の重《おも》なる人と食卓を共にした。そのうちに長谷川君もいたのである。これが長谷川君でと紹介された時には、かねて想像していたところと、あまりに隔《へだ》たっていたので、心のうちでは驚きながら挨拶《あいさつ》をした。始め長谷川君の這入《はい》って来た姿を見たときは――また長谷川君が他の昵懇《じっこん》な社友とやあ[#「やあ」に傍点]という言葉を交換する調子を聞いた時は――全く長谷川君だとは気がつかなかった。ただ重な社員の一人なんだろうと思った。余は若い時からいろいろ愚《ぐ》な事を想像する癖《くせ》があるが、未知《みち》の人の容貌態度などはあまり脳中に描かない。ことに中年《ちゅうねん》からは、この方面にかけると全く散文的になってしまっている。だから長谷川君についても別段に鮮明な予想は持っていなかったのであるけれども、冥々《めいめい》のう
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