》の革命の時に、バステユと云う牢屋を打壊《うちこわ》して中から罪人を引出してやったら、喜こぶと思いのほか、かえって日の眼を見るのを恐れて、依然として暗い中に這入《はい》っていたがったという話があります。ちょっとおかしな話であるが、日本でも乞食を三日すれば忘れられないと云いますからあるいは本当かも知れません。乞食の型とか牢屋の型とか云うのも妙な言葉ですが、長い年月の間には人間本来の傾向もそういう風に矯《た》めることができないとも限りません。こんな例ばかり見れば既成の型でどこまでも押して行けるという結論にもなりましょうが、それならなぜ徳川氏が亡《ほろ》びて、維新の革命がどうして起ったか。つまり一つの型を永久に持続する事を中味の方で拒《こば》むからなんでしょう。なるほど一時は在来の型で抑《おさ》えられるかも知れないが、どうしたって内容に伴《つ》れ添《そ》わない形式はいつか爆発しなければならぬと見るのが穏当で合理的な見解であると思う。
 元来この型そのものが、何のために存在の権利を持っているかというと、前にもお話した通り内容実質を内面の生活上経験することができないにもかかわらずどうでも纏《まと》めて一括《ひとくく》りにしておきたいという念にほかならんので、会社の決算とか学校の点数と同じように表の上で早呑込《はやのみこみ》をする一種の智識慾、もしくは実際上の便宜のためにほかならんのでありますから、厳密な意味でいうと、型自身が独立して自然に存在する訳のものではない。例えばここに茶碗がある。茶碗の恰好《かっこう》といえば誰にでも分るが、その恰好《かっこう》だけを残して実質を取り去ろうとすれば、とうてい取り去る事はできない。実質を取れば形も無くなってしまう。強《し》いて形を存しようとすればただ想像的な抽象物として頭の中に残っているだけである。ちょうど家を造るために図面を引くと一般で、八畳、十畳、床の間と云うように仕切はついていても図面はどこまでも図面で、家としては存在できないにきまっている。要するに図面は家の形式なのである。したがっていくら形式を拵《こしら》えてもそれを構成する物質次第では思いのままの家はできかぬるかも知れないのです。いわんや活《い》きた人間、変化のある人間と云うものは、そう一定不変の型で支配されるはずがない。政《まつりごと》をなす人とか、教育をする人とかは無論、総
前へ 次へ
全18ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング