ら、その内面生活と根本義において牴触《ていしょく》しない規則を抽象して標榜《ひょうぼう》しなくては長持がしない。いたずらに外部から観察して綺麗《きれい》に纏《まと》め上げた規則をさし突けてこれは学者の拵《こしら》えたものだから間違はないと思ってはかえって間違になるのです。
お前の云う通りにすると、大変おかしいことがある。例えて見れば芝居の型だ。また音楽の型とも云うべき譜である。または謡曲のごま節や何かのようなものである。これらにはすべて一定の型があって、その形式をまず手本にしてかえって形式の内容をかたちづくる声とか身ぶりとか云う方をこの型にあて嵌《はま》るように拵《こし》らえて行くではないか。そうしてその声なり身ぶりなりが自然と安らかに毫《ごう》も不満を感ぜずに示された型通り旨《うま》く合うように練習の結果としてできるではないか。あるいは旧派の芝居を見ても、能の仕草を見ても、ここで足をこのくらい前へ出すとか、また手をこのくらい上へ挙《あ》げると一々型の通りにして、しかも自分の活力をそこに打込んで少しも困らないではないか。型を手本に与えておいてその中に精神を打ち込んで働けない法はない。とこういう人があるかも知れない。けれどもこういう場合にはこの型なり形式なりの盛らるべき実質、すなわち音楽で云えば声、芝居で云えば手足などだが、これらの実質はいつも一様に働き得る、いわば変化のないものと見ての話であります。もし形式の中に盛らるべき内容の性質に変化を来すならば、昔の型が今日の型として行わるべきはずのものではない、昔の譜が今日に通用して行くはずはないのであります。例えて見れば人間の声が鳥の声に変化したらどうしたって今日《こんにち》までの音楽の譜は通用しない。四肢胸腰《ししきょうよう》の運動だっても人間の体質や構造に今までとは違ったところができて筋肉の働き方が一筋間違ってきたって、従来の能の型などは崩《くず》れなければならないでしょう。人間の思想やその思想に伴って推移する感情も石や土と同じように、古今永久変らないものと看做《みな》したなら一定不変の型の中に押込めて教育する事もできるし支配する事も容易でしょう。現に封建時代の平民と云うものが、どのくらい長い間一種の型の中に窮屈に身を縮《ちぢ》めて、辛抱しつつ、これは自分の天性に合った型だと認めておったか知れません。仏蘭西《フランス
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