い以上は大いに心細いのであります。つまり外形というものはそれほどの強味がないという事に帰着するのです。近頃|流行《はや》る飛行機でもその通りで、いろいろ学理的に考えた結果、こういう風《ふう》に羽翼《うよく》を附けてこういうように飛ばせば飛ばぬはずはないと見込がついた上でさて雛形《ひながた》を拵《こしら》えて飛ばして見ればはたして飛ぶ。飛ぶことは飛ぶので一応安心はするようなもののそれに自分が乗っていざという時飛べるかどうかとなると飛んで見ないうちはやっぱり不安心だろうと思います。学理通り飛行機が自分を乗せて動いてくれたところで、始めて形式に中味がピッタリ喰っついている事を証明するのだから、経験の裏書を得ない形式はいくら頭の中で完備していると認められても不完全な感じを与えるのであります。
 して見ると、要するに形式は内容のための形式であって、形式のために内容ができるのではないと云う訳になる。もう一歩進めて云いますと、内容が変れば外形と云うものは自然の勢いで変って来なければならぬという理窟《りくつ》にもなる。傍観者の態度に甘んずる学者の局外の観察から成る規則法則|乃至《ないし》すべての形式や型のために我々生活の内容が構造されるとなると少しく筋が逆になるので、我々の実際生活がむしろ彼ら学者(時によれば法律家と云っても政治家といっても教育家と云っても構いません。とにかく学者的態度で観察一方から形式を整える方面の人を指すのです)に向って研究の材料を与えその結果として一種の形式を彼らが抽象する事ができるのです。その形式が未来の実施上参考にならんとは限らんけれども本来から云えばどうしてもこれが原則でなければならない。しかるに今この順序主客を逆《さかさ》まにしてあらかじめ一種の形式を事実より前に備えておいて、その形式から我々の生活を割出そうとするならば、ある場合にはそこに大変な無理が出なければならない。しかもその無理を遂行しようとすれば、学校なら騒動が起る、一国では革命が起る。政治にせよ教育にせよあるいは会社にせよ、わが朝日社のごとき新聞にあってすらそうである。だから世間でもそう規則ずくめにされちゃたまらないとよく云います。規則や形式が悪いのじゃない。その規則をあてはめられる人間の内面生活は自然に一つの規則を布衍《ふえん》している事は前《ぜん》申し上げた説明ですでに明かな事実なのだか
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