《すべ》て多くの人を統御《とうぎょ》していこうと云う人も無論、個人が個人と交渉する場合に在《あ》ってすら型は必要なものである。会う時にお時儀《じぎ》をするとか手を握るとか云う型がなければ、社交は成立しない事さえある。けれども相手が物質でない以上は、すなわち動くものである以上は、種々の変化を受ける以上は、時と場合に応じて無理のない型を拵えてやらなければとうていこっちの要求通りに運ぶ訳のものではない。
そこで現今日本の社会状態と云うものはどうかと考えてみると目下非常な勢いで変化しつつある。それに伴《つ》れて我々の内面生活と云うものもまた、刻々と非常な勢いで変りつつある。瞬時の休息なく運転しつつ進んでいる。だから今日の社会状態と、二十年前、三十年前の社会状態とは、大変趣きが違っている。違っているからして、我々の内面生活も違っている。すでに内面生活が違っているとすれば、それを統一する形式というものも、自然ズレて来なければならない。もしその形式をズラさないで、元のままに据《す》えておいて、そうしてどこまでもその中に我々のこの変化しつつある生活の内容を押込めようとするならば失敗するのは眼に見えている。我々が自分の娘もしくは妻に対する関係の上において御維新前と今日とはどのくらい違うかと云うことを、あなた方《がた》が御認めになったならば、この辺の消息はすぐ御分りになるでしょう。要するにかくのごとき社会を総《す》べる形式というものはどうしても変えなければ社会が動いて行かない。乱れる、纏《まと》まらないということに帰着するだろうと思う。自分の妻女に対してさえも前《ぜん》申した通りである。否わが家《や》の下女に対しても昔とは趣きが違うならば、教育者が一般の学生に向い、政府が一般の人民に対するのも無論手心がなければならないはずである。内容の変化に注意もなく頓着《とんじゃく》もなく、一定不変の型を立てて、そうしてその型はただ在来あるからという意味で、またその型を自分が好いているというだけで、そうして傍観者たる学者のような態度をもって、相手の生活の内容に自分が触れることなしに推《お》していったならば危ない。
一言にして云えば、明治に適切な型というものは、明治の社会的状況、もう少し進んで言うならば、明治の社会的状況を形造るあなた方の心理状態、それにピタリと合うような、無理の最も少ない型でなけ
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