は自分と離れているから生徒の動作だけを形式的に研究する事はできても、事実生徒になって考える事は覚束《おぼつか》ないのと一般である。傍観者と云うものは岡目八目とも云い、当局者は迷うと云う諺《ことわざ》さえあるくらいだから、冷静に構える便宜があって観察する事物がよく分る地位には違ありませんが、その分り方は要するに自分の事が自分に分るのとは大いに趣を異にしている。こういう分り方で纏《まと》め上げたものは器械的に流れやすいのは当然でありましょう。換言すれば形式の上ではよく纏まるけれども、中味から云うといっこう纏っていないというような場合が出て来るのであります。がつまり外からして観察をして相手を離れてその形をきめるだけで内部へ入り込んでその裏面の活動からして自《おのず》から出る形式を捉《とら》え得ないという事になるのです。
これに反して自《みず》から活動しているものはその活動の形式が明かに自分の頭に纏って出て来ないかも知れない代りに、観察者の態度を維持しがちの学者のように表面上の矛盾などを無理に纏めようとする弊害には陥る憂《うれい》がない。さきほどオイケンの批評をやって形式上の矛盾を中味の矛盾と取り違えて是非纏めようとするは迂濶《うかつ》だと云って非難しましたが、あの例にしてからが、もしオイケン自身がこの矛盾のごとく見える生活の両面を親しく体現して、一方では秩序を重んじ一方では開放の必要を同時に感じていたならば、たとい形式上こういう結論に到着したところで、どうも変だどこかに手落があるはずだとまず自《みず》から疑いを起して内省もし得たろうと思うのです。いくら哲学的でも、概括的でも、自分の生活に親しみのない以上は、この概括をあえてすると同時にハテおかしいぞ変だなと勘づかなければなりません。勘づいて内省の結果だんだん分解の歩を進めて見ると、なるほど形式の方にはそれだけの手落があり、抜目があると云うことが判然して来るべきです。だからして中味を持っているものすなわち実生活の経験を甞《な》めているものはその実生活がいかなる形式になるかよく考える暇さえないかも知れないけれども、内容だけはたしかに体得しているし、また外形を纏める人は、誠に綺麗《きれい》に手際《てぎわ》よく纏めるかも知れぬけれども、どこかに手落があり勝である。ちょうど文法というものを中学の生徒などが習いますが、文法を習ったか
前へ
次へ
全18ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング