、どっちか一方が善くって一方が悪いにきまっている、あるいは一方が一方より小さくて一方が大きいに違いないから、一纏《ひとまと》めにしてモッと大きなもので括《くく》らなければならないと云ったならば、この学者は統一好きな学者の精神はあるにもかかわらず、実際には疎《うと》い人と云わなければならない。現にオイケンと云う人の著述を数多くは読んでおりませんが、私の読んだ限りで云えば、こんな非難を加えることができるようにも思います。こう論じてくると何だか学者は無用の長物のようにも見えるでしょうが私はけっしてそんな過激の説を抱《いだ》いているものではありません。学者は無論有益のものであります。学者のやる統一、概括と云うものの御蔭《おかげ》で我々は日常どのくらい便宜《べんぎ》を得ているか分りません。前に挙《あ》げた進化論と云う三字の言葉だけでも大変重宝なものであります。しかしながら彼ら学者にはすべてを統一したいという念が強いために、出来得る限り何《なん》でもかでも統一しようとあせる結果、また学者の常態として冷然たる傍観者の地位に立つ場合が多いため、ただ形式だけの統一で中味の統一にも何にもならない纏《まと》め方《かた》をして得意になる事も少なくないのは争うべからざる事実であると私は断言したいのです。
冷然たる傍観者の態度がなぜにこの弊を醸《かも》すかとの御質問があるなら私はこう説明したい。ちょっと考えると、彼らは常人より判明《はっきり》した頭をもって、普通の者より根気強く、しっかり考えるのだから彼らの纏《まと》めたものに間違はないはずだと、こういうことになりますが、彼らは彼らの取扱う材料から一歩|退《しりぞ》いて佇立《たたず》む癖がある。云い換えれば研究の対象をどこまでも自分から離して眼の前に置こうとする。徹頭徹尾観察者である。観察者である以上は相手と同化する事はほとんど望めない。相手を研究し相手を知るというのは離れて知るの意でその物になりすましてこれを体得するのとは全く趣が違う。幾ら科学者が綿密に自然を研究したって、必竟《ひっきょう》ずるに自然は元の自然で自分も元の自分で、けっして自分が自然に変化する時期が来ないごとく、哲学者の研究もまた永久局外者としての研究で当の相手たる人間の性情に共通の脈を打たしていない場合が多い。学校の倫理の先生が幾ら偉い事を言ったって、つまり生徒は生徒、自分
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