ても聞かない。父はついに憤死する。これが結末であります。この一段があるので、昔から見馴《みな》れた恋愛談の陳腐《ちんぷ》なものとは趣を異にするようになりますが、結婚問題が破裂するところがあればこそはあなるほどと云わせる事ができるのです。はあなるほどというのは取も直さず新らしかったと云う意味であります。新らしい因果《いんが》を見てもっともだ今の世の中にはこんな因果があるだろうと思うからです。今の人々の腹の中には行為にこそ、ここまで出さなくっても、約束的な姑息《こそく》手段に堪《た》えないで、マグダと同じような似たものが、あるだろう、あり得るはずだと認めるだけの眼をもって読んで行くからであります。この点においてこの劇は固《もと》より真を発揮したものであります。しかしこの劇はそれだけよりほかに能事のないものであろうかと考えてみますると、大にあるでしょう。第一はこの相手の男の我儘《わがまま》なところ、過去の非を塗《ぬ》り潰《つぶ》して好い子になろうと云う精神が出ているから、読者はその点において憎悪《ぞうお》とか軽蔑《けいべつ》とかの念を起さなければならないはずでしょう。しかし世の中は虚偽でも上部《うわべ》さえ形式に合っていれば、人が許すものだから、互の終りを全くして幸福を得ようとするには、過去の不品行を蔵《かく》すに若《し》くはないという男の苦心を察して見ると多少は気の毒であります。どこまでも習慣的制裁を墨守して娘の恥を雪《そそ》ぐためには、ともかくも公けに結婚させてしまわなければならないと思い乱れる父親にも同情があります。最後に娘が一徹《いってつ》に、たとい世間からどう云われても、社会的地位を失っても、そんな俗習に圧《お》しつけられて、偽わりの結婚をして、可愛い子を生涯《しょうがい》日蔭ものにするのはけっしていやだと、あくまでも約束的習慣に抵抗するところは、たといその情操に全然一致しない人までも、幾分か壮と感ずるでしょう。この数者があればこそ劇も面白くなるのでありますが、これは、みんな主観の方の情操であります。これで見ますと真だけの作と思ってたものに存外、他の分子が這入《はい》っている事が御分りになりましょう。これに反していかに主観的の作物でも全然真を含んでいないものはありません。もし含んでいなかったらとうてい読み得ないにきまっています。かの infinite longing ですらこれを叙述する時には単に吁《ああ》とか嗟乎《ああ》では云いつくせないので、不足ながら客観的形相をかりてこれを髣髴《ほうふつ》させようとするのであります。それについてこんな話があります。これは小説ではありません。事実だとして、あるものに書いてありましたが、私は単に自分に都合のいい例として御話を致します。以太利《イタリー》のさるヴァイオリニストが旅行をして、しばらく、ポートサイドに逗留《とうりゅう》しておりました時、妙齢の埃及《エジプト》の美人に見染《みそ》められまして親しき仲となったそうでございます。ところがこの男は本国に許嫁《いいなずけ》の娘があるので、いよいよ結婚の期が逼《せま》った頃、ポートサイドを出帆して帰国の途に上りました。ところがその夜になると、船足で波が割れて長く尾を曳《ひ》いている上に忽然《こつぜん》とかの美人があらわれました。身体《からだ》も服装も透《す》き通っておりますが、顔だけはたしかにその女だと分るくらいに鮮《あざや》かであります。ただ常よりは非常に蒼白《あおしろ》いのであります。この女が波の上から船の方へ手を伸して、舷《ふなばた》を見上げながら美くしい声で唄《うた》をうたいました。それが奇麗《きれい》に波の上へ響くので、船の中の人はことごとく物凄《ものすご》い心持になりましたが、やがて夜が明けると共にかの美人はふっと消えました。やれやれと安心しているとその晩またあらわれました。そうして手を伸して、首を上げて、波の上を滑《すべ》って、船のあとをつけて、いかにも淋しい声で、夜もすがら唄をうたいます。それから夜が明けると、またふっと消えます。そうして夜になるとまた出ます。そのうち船がとうとうネープルスへ着きましたので、かの音楽家はそこで上陸致して、自分の郷里へ帰ると、手紙が来ております。差出し人はと見ると、ポートサイドにいる友人で、かねて自分と彼の女との間を知っているものでありました。すぐに開封して見ると、あの女は君が船へ乗って出帆するや否や、海の中へざぶざぶ這入《はい》って行って、とうとう行き方知れずになったとありました。――話はこれでおしまいです。私はこの話を読むと何となく妙な気分になりました。その気分が妙になるところにこの話の価値はあるのですから、どの畠《はたけ》のものであるかは分っております。しかし真には乏しい。実事物語としてかいてありましたが、どうもその方の価値は乏しい。真とか真でないと云う事は、たくさんの人の経験が一致して存在していると認めるか、また天下に一人でもいいからその存在を認めたものがあって、これが真だと云った時に、他のものがこれを認識しなくてはならんものであります、また本人は真だと証明し得るものでなくてはなりません。出来得るものならば実験ででも証明し得るものの方がたしかには相違ないのであります。ところがこの幽霊談になるとなかなか容易には証明できない。できるようになるかも知れませんが、今のところではまず嘘《うそ》に近い方であります。しかしながら胸中の恋とか、なつかしさとか云うものは、たとい人に見せられないまでも、よし人が想像してくれないまでも、また好い加減に甲、乙、丙、丁のだれの胸の中にも存在しているんだろうぐらいに推察しているにもかかわらず、自分だけにとってはこれほどたしかなものはありません。これほど切実な経験はありません。だからやっぱり真だろうと云われると、ごもっともと云わなければなりません。ただ自分に真なものすなわち人に真なものになって、始めて世間に通用する真が成立するのだから、この切実な経験を誰が見ても動かすべからざる真にもり立てようとするには、これを客観的に安置する必要が起って参ります。そこで私はこの演説の冒頭に自分の過去の経験も非我の経験と見傚《みな》す事ができると云ってあらかじめ予防線を張っておきました。刻下の感じこそ、我の所有で、また我一人の所有でありますが、回顧した感じは他人のものであると申しました。少なくとも自分に縁故のもっとも近い他人のものとして取り扱う事ができると申しました。愛と云うと一字であります。自分の愛と人の愛と云えば、たとい分量性質が同じでもついに所有者が違って参ります。愛の見当《けんとう》が違います。方角が違います。したがって自己の過去の愛と他人の愛とは等しく非我の経験と見傚し得ます。この点において主観的なる愛そのものを一歩離れて眺める事ができます。ただ困る事は、時により場合により増減があって、変化の度が著るしく眼につくんで、それがため客観的価値が大分下落致します。のみならず悲しい事には、いくら客観的に見る事ができても、客観的に写す事ができない性質のものであります。ある坊さんに、あなたちょっと魂を手の平へ乗せて見せておくれんかと云われて、弱った人があります。これが私なら、魂と云う字を手の平へ書いて坊さんに見せてやろうと思います。それと同じ事で客観的に愛が見られるなら、客観的に愛を書いて見ろと云われるなら、ただ愛[#「愛」に白丸傍点]とかいて見せます。甘[#「甘」に白丸傍点]いとか、辛[#「辛」に白丸傍点]いとか書くのと同じ意味で書いて見せます。白[#「白」に白丸傍点]いとか黒[#「黒」に白丸傍点]いとかいう意味で書いて見せます。しかし愛[#「愛」に白丸傍点]の一字じゃいけないから、もっと長く分るように書いて見ろと云われるなら、それじゃ小説でもかこうと申します。それが茶かすようで気に入らなければ、そんな無理を云わないで、誰それの愛を書けと明暸《めいりょう》に所有主を示して貰《もら》いたい、いくら僕が愛の客観的存在を認めても、ただの愛はかけない、根こぎにして引っこ抜いた愛だけはかけない、根こぎにして引っこ抜いた鉢植《はちうえ》の松を描《か》けという難題と同じ事だからと云ってごめんこうむります。それじゃ主観の叙述はほとんどなくなる訳だとまたおっしゃるかも知れませぬが、前から何遍も申す通り無論あるところでは主観も客観も双方一致しているので、書き手の心持、読み手の心持で判ずるよりほかに手のつけようのない場合がいくらでもあります。だから形式の上ではついに要領を得なくなります。しかしちょうど好い機会だから、今の幽霊の話を説明かたがたこの疑点をも明らかにしておきましょう。今申すごとくたとい愛の客観的存在を公認しても、これを叙述する時には、その愛の所有者と結びつけなければなりません。五官に訴え得るように取り扱わなければなりません。同時に愛を主観的の経験としてもやはり同様の手段に訴えなければ叙述ができません。しかしそれだから同じ事に帰着すると結論するのは少し誤っております。前の方は非我の事相のうちに愛を認めて、これを描出《びょうしゅつ》するので、後の方は我の愛を認めたる上、これを非我の世界に抛《な》げ出すのであります。すなわちその本位とするところは、我が味うところの愛という情操で、この無形無臭の情操に相応するような非我の事相を創設[#「創設」に白丸傍点]するのであります。非我の事相は自然から与えられたもので、一厘も動かすべからずとして、その一分子たる愛を叙して来るのと、我の切実に経験する愛を与えられたるものとして、もっとも適当にこれを叙述せんがために、非我の事相を任意に建立《こんりゅう》するのとの差になります。したがって両者はある点において一致するのはもちろんでありますが、極端に至ると大に趣を異にするのであります。先ほど述べた幽霊の恋物語のようなものはその極端の例の一つだと思います。ここに、こんな切な恋がある。これをどう云いあらわしたらば、云い終《おお》せるかとの試問に応じて出来上った答案と見なければなりません。世の中へ出て行って、どんな恋があるか探索して来いと云う命令に基《もとづ》いた、報告書と見ては見当が違います。したがって客観的価値の少ないものができたのであります。真と認められないものになりました。だからこの話を聞くと、マグダの結末ほどには、はあなるほど、こうもあろうとか、こうあるかも知れないねと云う気にはなりません。しかしながらその代りに、ごもっともだ、こうもありたいね、こうあれかしだと云う気にはたしかになれます。あれかしと云う語は裏面に事実じゃないと云う意味を含んでおりますから、つまりは嘘だと云う事に下落してしまいます。この下落が烈《はげ》しくなるととうてい読めなくなります。馬鹿馬鹿しくなります。例《たと》えば今の話しでも、もし船のあとを跟《つ》けるものが、幽霊でなくって、本当の女が、波の上をあるいて来て、ちょいと、あなたとか何とか云って手招ぎでもしたらそれこそ奇蹟《きせき》になります。幽霊ならば、有るとも無いとも証明ができないだけで済みますが、生きた人間が波の上を歩いては明かに自然の法則を破っております。いくら、かくあれかしと思ったって、冗談《じょうだん》じゃない、おのろけも好い加減にした方がよかろうと申したくなります。人を馬鹿にするにもほどがあらあね、まるで小供だと思っていやがると本を抛《な》げ出すかも知れません。(西遊記、アレビヤン・ナイト、もしくはシェーヴィング・オブ・シャグパットのようなものの面白味は別問題として論じなければなりません)して見ると私が前段に申した意味が自《おのず》から御明暸になりましたろう。すなわちいかな主観的な叙述でも、ある程度まで真を含んでおらんと読みにくいものである、そう截然《せつぜん》と片っ方づけられるものじゃないと云う事であります。この幽霊のごときは極端の極端の例であるから、積極的に真を含んでおらんとも云えましょうが、むやみに真を打ち壊して
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