例で説明して見ますと)※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]《かき》は赤茄子《あかなす》のごとしと云うと無論 simile を内職の内職くらいにしておりますが、本職は固《もと》より※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]の性質を明かにするためです。※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]を葡萄《ぶどう》や梨《なし》と区別するためであります。今※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]を赤茄子で説明すると、その説明がうまくできたかできないか、よく※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]をあらわし得たか得ないか、うまい比較物をもって来たか来ないか、※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]と赤茄子が実によく似ている似ないで、はあなるほどと思う程度が大分違います。このはあなるほど[#「はあなるほど」に傍点]が何時でもいろいろな程度で食っ付いて廻るのであります。simile の方でもこのはあなるほど[#「はあなるほど」に傍点]は無論必要でありますが、それは内職で、本業を云うと、石の冷たさ堅さを自得して、その自得した気分で人の心を感ずるのでありますから、石と人の心を比較してどこまで妥当なりや否やはむしろ第二義の問題かも知れないのであります。※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]と赤茄子の例はもっとも簡単なものでありますが、もう少し複雑になると、このはあなるほど[#「はあなるほど」に傍点]だけで一篇の小説ができます。(因果律《いんがりつ》を発揮した場合)。これに反して馬琴《ばきん》のような小説は主観的分子はいくらでもありますが、この方面の融通が利《き》かないから、つまりは静御前《しずかごぜん》は虎のごとしなどと云う simile を使っているようなもので、ついに読む事ができなくなるのであります。君の云うはあなるほど[#「はあなるほど」に傍点]はなるほど分ったが、そりゃやはり主観じゃないかと云われるかも知れない。そうだと申すよりほかに致し方がないが、これは客観的関係を明めるにつけて出るので、似る、移る、因が果になる等の事実を認めて感心した時の話であって、すでに明らめられたる客観的関係を味うのとは方向が違うのであります。三勝半七酒屋《さんかつはんしちさかや》の段《だん》というものを知らないから、始めて聞いて見てははあと感心するのと、もう一遍酒屋を聞いて来ようかと出かけて、ははあと感心するのとは、同じ感心でも、性質が違います。この客観的に非我の関係を明めるにつけて生ずる付属物を intellectual sentiment と云います。付属物とは下等なものという意味ではありません。否むしろこの方が文学の領域内では必要なのであります。しかし客観的態度を主として、真の発揮に追陪《ついばい》して起るものでありますし、かつは創作家の態度を主観(主感)、客観(主知)と分けた以上は、今またこの intellectual sentiment を主観の部に編入するといたずらに混雑を引き起しますからやはり附属物としておきます。それでも少し混雑して御分りにくいかも知れません。私の説明の下手なところは御詫《おわび》を致します。(場合に依っては intellectual sentiment と云うのがあまり仰山《ぎょうさん》でありますが面倒だから、これですべてを兼ねさせます)
客観すなわち主知の方は以上の通りであるが、主観すなわち主感の方はと申すと、真を発揮するに対して、美、善、壮に対する情操を維持するか涵養《かんよう》するか助長するのが目的であります。この三者の解釈は詳《くわ》しく述べる事ができません。美と云う事を大きく解すると、善も壮も掩《おお》っても構いません。のみならず真をさえ包んでもいいでしょう。それは人の勝手であります。受持の範囲をきめて名をつけるだけの事であります。私はごく単純に耳目を喜ばす美しいもの、美しい音くらいで御免蒙《ごめんこうむ》ります。もっとも美醜を通じて同範囲のものを入れます。善もその通り善悪を通じ含ませるのみならず、直接に道徳に関係のない希望とか、愛とかいうものも入れるつもりです。壮は意志の発現(発現でなくっても発現のポテンシャリチーを認めた時も無論入れます)に対する情操を入れます。上は壮烈もしくは壮大より下は卑劣もしくは繊弱に至るまで入れます。するとこれは前の善の範囲に或所まで入り込みます。すべての感情が多くの場合において意志を促《うな》がすもの、または意志に変化する傾向のあるものとの学説に従えば、この二|範疇《はんちゅう》はある点においていっしょに出合うものでしょうが、壮とは行為|所作《しょさ》に対するこちらの受け方を本位として立てたので、善とは善悪その他の諸情そのものに対するこちらの受け方を本位として立てた、範疇のつもりであります。御相談では片っ方へ編入してもよろしゅうございます。それから人間の所為を離れていわゆる物質界に意志の発現もしくはそのポテンシャリチーを認めた場合には、この意志は変じて物理上の energy のようなものになります。少なくとも人間の意志とは趣を異にして参ります。かように壮の発現もしくは潜伏が物質界に移るとすると、美の範疇と接近して参ります。それ故時宜によっては、これも美のなかへ押し込んでも構いません。まず不完全ながら善、美、壮、の解釈はこうと致して、この三者に対する我の受け方を叙述するのがこの方面の文学の目的であります。ところが我の受け方は千差万別に錯雑して参りますが、総括すると快不快の二字に帰着致します、好悪の二字に落ちて参ります。すなわち善に逢《あ》って善を好み、悪を見て悪を悪《にく》み、美に接して美を愛し、醜に近づいて醜を忌《い》み、壮を仰いで壮を慕い、弱を目して弱を賤《いや》しむの類であります。固《もと》より善、美、壮の考は人により時により、相違はあります、また、三が冒《おか》し合わないとも限りますまい。現に前に述べたカロリーネの話でも愛に従うのを善とすれば、あの話を読んで充分満足の気分になれましょうし、また夫《おっと》に従うのを善とすれば、どうも不快な話になります。しかしどう浮世が引《ひ》っ繰《く》り返《かえ》っても、三者に対する情操のない世はないはずで、いかに無頓着《むとんじゃく》な人間でもこの点において全然好悪を持っていない人はありません。もしあれば社会が維持できないばかりであります。一歩進んで云えば社会は改良できない訳であります。器械的の改良すなわち法律が細かくなるとか巡査の数を殖《ふや》す事はできますが、肝心《かんじん》の人間の行為を支配する根本の大部分を閑却して世の中が運転する訳がありません。これがために、これらの情操を維持し、助長する事を目的にする文学が成立するのであります。
私は客観主観両方面の文学の目的とするところを一言述べました。ここに目的と云うのは叙述家自らが、叙述以前にかかる目的を有しておらなければならんという意味ではありません。その結果だけがこう云う目的に叶《かな》っているだけでもいっこう差支《さしつかえ》ないのであります。我々が結婚するようなもので、何も必ず子を産む了見《りょうけん》で嫁を貰うとは限りません。しかし事実は多くの場合において、あたかも子を産む事を目的にして結婚をしたように見えます。さればといって子孫を作る目的で嫁を貰ってならんと云う理由もありませんから、結果が同じならどうでも構わないでしょう。私はこの目的を眼中に置かないで、おのずからこの目的に叶《かな》うような述作をやる人を art for art 派の芸術家と云いたいと思います。俗に art for art 派と云うと何だか、ことさらに道徳を無視する作家のみを指すようですが、たとい道徳的情操を鼓吹《こすい》したって、始めから、この目的を本位として、述作にとりかからずに、出来上った結果だけがおのずからこの目的にかなっていたらやはり art for art の作家かと思います。ユーゴーの攻撃のごときは固《もと》より歴史的にああいう必要もあったのでしょうが、私のように解釈したらあれほど議論をする必要もなかろうと思います。同時に最初から一定の目的をもって出立したって構わない訳かと存じます。普通この立場を非難する人の説はこうなんだろうと思います。作そのものが芸術家の目的であるのに、作以前にある目的を立てておいて、その目的のために、作を道具に使えば無理ができるから、作の価値に影響を及ぼしてくるところに弊《へい》がある。――はたしてこうならば至極《しごく》ごもっともであります。しかしあらかじめ胸中にある目的を立てるのと、作そのものを目的にするのとはこの場合において、そんなに判然たる区別はありません。刀は人を殺す道具であります。すると人を殺すという所作《しょさ》が目的になります。だから二つのものは全く違います。しかし斬《き》るという働きを考えたらばどうでしょう。方便でしょうか目的でしょうか。刀を使うという方から云えば方便でありますが、殺す方から見れば、目的にもなりましょう。云い換えると、斬ると云う働きが一歩進むごとに、殺すと云う目的が一歩ずつ達せられるので、斬り了《おわ》った時に目的は終局に帰するのだからして、斬るのと殺すのはそう差違はありません。述作と述作の目的とは斬ると殺すくらいの差じゃなかろうかと思います。述作そのものを方便としたって、方便と共に目的も修了せられる訳ではないでしょうか。少なくとも、今述べたような目的をもってならば最初からその心得で述作に取りかかっても、ただ述作だけを目懸《めが》けて取りかかっても同じ事だと私は思ってるのであります。だから art for art 派でも、そうでなくっても差支《さしつかえ》ない。要するに述作の目的は以上のように区別ができると云うのであります。
述作の二態度とその目的とするところは今申した通でありますが、ただ御注意までに一言しておきたいのは、こんな事であります。こう分けるとちょっと、一方に属するものは、他方に属してはならん。どっちか片づけて旗幟《きし》を鮮明にしなければ済まないように見えるかも知れませんが、そう見えてはかえって迷惑なので、すでに誤解を防ぐためカロリーネの例や馬琴の例をひいて、機会のあるたびに二三度弁じておきましたが、改めて御断わりを致しておきたいのは、真を写すものは純粋なる真のみを写してはいません。またおられんのであります。またいかに情緒に訴える人でも全く真を離れての叙述は――少なくとも長い叙述は――できないのであります。ズーデルマンのマグダと云う脚本をつい近頃になって読みましたが、これはマグダという女が、父の意に悖《もと》って、押しつけられた御聟《おむこ》さんを嫌《きら》って、家を出奔《しゅっぽん》した話であります。さて家を飛び出してから諸所を流浪《るろう》する間に、ある男と親しい仲になって、子を生んで、それからその男に棄《す》てられます。男はマグダの故郷に帰って、立派な紳士になりすましていると同時に、マグダは以太利《イタリー》で有名な唄《うた》い手《て》になる。回《めぐ》り回って故郷へ興行に来る。父母と和解する。ところが流浪中の不品行が曝露《ばくろ》して、また騒動が起ろうとすると、昔《むか》し棄《す》てた男が出て来て正当に婚儀を申し込む。ここでめでたく市が栄えれば平凡極まる趣向でありますが、いざという間際《まぎわ》になって、聟《むこ》になろうという男が昔の事――互の間に子があると云う事――だけは、今の身分にかかわるから、どうか公けにしずにおいてくれと頼む。マグダはここまでは納得したようなものの、そんな関係を内々にして夫婦になれるものかと大いに怒って、どう頼んでも聞き入れない。父は御前が承知してくれないと、家の恥辱になる。いたずら娘を持ったと云われては、世間へ顔向けができない。妹だって御前の身内だと云われては、誰も貰い手がない。だから、どうか承知して男の云う事を承知してやれと逼《せま》る。マグダはどうあっ
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