ません。なるほどつまらない。私もつまらないと思います。しかしここまで解剖して見て始めてつまらない事が分ったので、それまでは私も諸君と同じようにいっこう不得要領であったのです。しかしつまらないながらもこういう事だけは云い得るようになりました。この六通りの叙述は極端から極端までずうとつながっています。どこで、どれが終って、どこで、どれが始まったと云う事ができないように続いています。それをほかの言葉で翻訳すると、客観主観いずれの態度にしても、このうちの一と通りに限らねばならないという理由もなし、また限ったが便利だという事もなし、その時その場合で変化しても差支《さしつかえ》ないのみならず、変化するのが順当で、変化しなければ窮窟《きゅうくつ》であると云う事だけはたしかのように思われます。もっとも客観の極端に至ると科学者だけに通用する叙述になり、主観の極端になると、少数の詩人のみに限られる叙述になりますから、例外になります。しかし常人はこの両極の間を自由勝手にうろうろしているものであります。そうして創作家もまた常人と同じようにその辺のいい加減な所を上下しているものであります。
そこで、かの西洋の文学史に起った何派もしくは何主義というものは、その傾向から推《お》して、これらの客観的態度の三叙述、もしくは主観的態度の三叙述の左右へ排列されるものだろうかと思います。まず写実派、自然派、のようなものは前者に属し、浪漫派、理想派などと云うものは後者に属するのではなかろうかと思います。私はこれらの諸派を歴史的に研究して、こんなものだと断定するのではありません。私が創作家の態度を極端まで左右に展開さしてその傾向を確めていると、西洋にはこういう派がある、ああいう派があるという話だから、それならばとその性質を大略聞いて見て、それならば、私の解剖した両翼の方へその派の名前を結びつけて排列してみよう、見ればこう左右に割って置かれはしないかというまでであります。したがって私はこの解剖によって、歴史的に起った自然派や浪漫派の定義を下す意は毛頭ありません。すなわちこの左右の両翼が自然派もしくは浪漫派とアイデンチカルのものという考はまるでないのであります。私は心理状態の解剖から出立する。だからできるだけ単純にまたできるだけ根本的に片づけ得るように解剖して来たのであります。しかるにかの自然派もしくは浪漫派と名《なづ》くるものはその中に含まれたる多くの書物の特性をあらわしておって、大分複雑であるのみならず、その内容を形づくっている文章がすでに純粋に[#「純粋に」に傍点]何々派をあらわしておらんから、とうてい私の展開させた両翼と全然一致しようがないのであります。けれども大体の傾向を云えば、こう分布排列しても無理はないと思います。
ところで普通の人間は今申す通り、この両極端の間をうろついております。それのみならず、この六通りのうちの一叙述をえらんだところで、えらんだのは当人で、これを聞くものまたは読むものはその隣りの叙述と受取るかも知れません。例えば月が眉《まゆ》のようだという叙述を本人は perceptual と思って述べていても、聞く人は simile と受けるかも知れません。第三者がこれを見て、どっちが間違っているとも評されません。双方共正しいとしなければなりません。そこでこう云う事は云われないでしょうか。自然派と浪漫派とは本来の傾向から云うとやはり左右に展開しているようですが或るところになると、どっちとでも解釈ができるもので、要は読者の態度いかんによって決せられるものだと云う事は。一句や二句の例ではありません。ちと比例を失するような大きな例になるかも知れませんが、ちょっと御判断を願うために御話を致します。独乙《ドイツ》で浪漫主義の熾《さかん》に起った時、御承知の通り、有名なカロリーネと云うシュレーゲルの細君がありました。この細君が夫《おっと》の朋友《ほうゆう》のシェリングと親しい仲になりまして、とうとう夫と手を切って、シェリングといっしょになります。しかもその時この女は自分の手紙のうちに、縁はこれにて切れ申|候《そうろう》。始めより二世かけてとは固《もと》より思い設けず候と書きました。しかもシュレーゲルといっしょになったのがすでに二度目なのですから、シェリングの所へ行くと三度目の細君になるのです。それで亭主の方はどうかと云うと、離婚を申し込まれた時は侠気《きょうき》を起してさっそく承知したのみならず、離別後も常にシェリングと親密な音信をしていたそうであります。もう一つこんな御話があります。東京近傍の在ですが、ある宿《しゅく》に一軒の荒物屋がありまして、荒物屋の向うに反物屋がありましたそうで。ところがその荒物屋の神《かみ》さんが、どういう仔細《しさい》か、その家《うち》を離別致して、すぐ向うの反物屋へ嫁に行ったそうです。それで、嫁に行った明くる日から、店先へ坐《すわ》って、もとの亭主と往来を隔《へだ》てて向きあっているんだそうです。私にこの話をして聞かせたものはあさましいと云わぬばかりな顔をして、田舎《いなか》のものは呑気《のんき》なものだと云って笑っていました。この二つの話を取って調べて見ますとよほど似ております。しかし前のは浪漫派の中心で起った事で、後のは――何派だかちょっと困りますが、まあ自然派の作にでもありそうに見えます。しかし事実はどうしても同じなんだから致し方がない。それじゃ同じものが、どうして浪漫派になったり、自然派になったりするんでしょう。まあ説明するとこんな訳じゃありませんか。浪漫派の人は主観的傾向に重きを置くもので、愛はその傾向のもっとも顕著なるものでしたがってもっとも神聖なものであります。愛と云う分子があればこそ結婚とか夫婦|同棲《どうせい》とかいう形式の内容に意味がある訳だから、この内容がなくなる以上は、どんな形式だって構やしません。三下《みくだ》り半《はん》を請求する方もその覚悟、やる方もその了見《りょうけん》だから双方共|洒然《しゃぜん》として形式のために煩《わずら》わされないのであります。ところが反物屋の方になると愛に重きを置いた出来事かも知れないが、始めから愛のない結婚で出ても引いても同じ事なのかも知れない。それはどう解釈するにしても、我々はそう云う動機を見るのじゃない、普通の約束的の徳義を破壊した行為だという点を認めるのであります。徳義を棄《す》てた露骨の人性かもしくは野性がそのまま出た所作《しょさ》だと見るのであります。カロリーネの方は離縁したり結婚したりするのを善い事、美くしい姿と思ってやるのです。反物屋の神《かみ》さんはそんな事を考えちゃ――まあいないでしょう。だから見るものの方でも、そんな人間もあるかね、はあそうかねと一つの事実として認めるのであります。だからこの二つの話を叙述する時には、ただ叙する時の態度が違うのであります。ところがさっき申した通り「眉《まゆ》のような月」と云う叙述が、どっちの態度にもなる訳ですから、この結婚問題の叙述もまたどっちの態度にも受け取られるかも知れない。いくら反物屋の神さんを書いても主観的の叙述だと人が読むかも知れず、カロリーネの嫁入事件を写しても客観的の叙述だと解されないとも限りません。して見ると自然派と浪漫派もある場合には、客観主観の叙述が合し得るごとくに合し得るものと見ても差支《さしつかえ》ない、かと思います。(もっともこれは一句や二句の叙述でありませんから、「眉のような月」のように、きっぱりとは参りません。ただ両態度の傾向を推《お》して極端まで持って行った御話ですからその辺は御斟酌《ごしんしゃく》を願います)
これは一つの態度が両様に認められ得ると云う例でありますが、もう一つ前節の最初に申した我々の態度は常に両極の間をぶらついて、いるもので、けっして片っ方づけられるものでないと云う事を御話をしてそれから、議論の歩を進めたいと思います。これも分りやすいためになるべく単簡《たんかん》に通俗な例で説明致します。普通用談の際は無論雑談の際でも、我々は滅多《めった》に主観的な叙述を用いてはいないと思っています。詩的な、浪漫的な句は筆を執《と》って紙にでも咏懐《えいかい》の辞を書き下す時に限るように考えています。ところが実際は大違で、談笑の際|始終《しじゅう》この種の叙述をやっております。腹の虫が承知しないなどと云うのもその一つであります。腹のなかに虫はおりません。よしおったところで、承知しない虫はおりません。承知しない虫がいたって誰が相談なんかするものですか。あるいは腹が立つと申します。腹が立つと云ったって、元来|坐《すわ》りもしない腹が立ちようがないじゃありませんか。あるいは眼が廻るとも云うようですが、今日までまだ眼玉の廻転している人に逢《あ》った事がありません。それにもかかわらず三句とも皆通用しています。これは皆主観的態度で話し主観的態度で聞いているのであります。この態度で話せばこそ、聞けばこそ通用するのであります。大袈裟《おおげさ》に云うと御互が浪漫派だから合点ができるのであります。簡単を尊んで、短かい句だけで説明しましたが、もっと長くなっても精神に変りはありません。この態度で行く方が大分便利な事があります。その代り徹頭徹尾浪漫派ではやはり辟易《へきえき》します。「君富士山へ登ったそうじゃないか」「うん登った」「どんなだい」「どんなの、こんなのって大変さ」「どうして」「まず足は棒になる、腹は豆腐になる」「へえー」「それから耳の底でダイナマイトが爆発して、眼の奥で大火事が始まったかと思うと頭葢骨《ずがいこつ》の中で大地震が揺り出した」こんな人に逢ったらたまりません。少々気が触れてるんじゃないかしらといささか警戒を加えたくなります。してみると、我々の文句長く云えば叙述はやっぱり前に説明した六通りの中間を左へ出たり右へ出たりして好い加減に都合の好いところで用を足しているに違ない。創作家もやっぱりその通りであります。論より証拠《しょうこ》自然派でも浪漫派でも構わないから、一冊の本を取って来て、一句ごとに五六頁順々に調べて見ると分ります。浪漫的な句はたくさん出て来ます。浪漫的な句が嫌な人だって、腹を立てちゃいけない、眼が廻っては怪しからん、是非腹の虫を殺してしまえとまで主張する人はないでしょう。浪漫派の書物もその通り、けっして、のべつ浪漫ずくめでは済まないのです。諸君は、あるいは、そりゃただ句の話じゃないか、一篇一章もその議論で行けるかいと御尋ねになるかも知れません。さよう一篇一章一巻となると私も少し困却致します。しかし降参する必要もないだろうと思います。と云うのは私の考では一句でも叙述、二句でも叙述、三句続いても叙述の気なので、しかもその叙述には前に説明したような種類以外の叙述すなわち回想とか批判とかいうものまでも含められるだけ含めるつもりなのですから、応用はこれで思ったよりも存外広いのであります。
ここで一歩進めます。客観的態度の三叙述を通じて考えて見ますと、いずれも非我の世界における(冒頭に説明したごとく我も非我と見傚《みな》す事ができますが)ある関係を明かにする用を務めております。知識を与うるのが主になっております。だからして一言にして云うと真[#「真」に白丸傍点]を発揮するのが本職であります。本職と云う意味は、同時に主観的の内職もできると云うつもりで用いた言葉であります。もしこの内職がある程度まで併行《へいこう》していなければ、この種の叙述の価値は大分減じます。大学の教授が私立大学をやめると収入がよほど違うようなものであります。現に真[#「真」に白丸傍点]専門の x2+y2=r2[#「x2」、「y2」、「x2」はそれぞれ縦中横、すべての「2」は上付き小書き]氏のごときに至っては、ほとんど文学を休《や》めて、理学の方で月給を貰わなければ立行かん姿であります。ただ真を本職とする創作家のために都合の好い事は真そのもに付着している別途の感情を有している事であります。例えば(前の
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