ますが、個々特別の場合を綜合《そうごう》して成立ったものであるという点において、すでに密切な主観的意味を失っております。personal element が亡《な》くなっております。犬はかくあるべきものという事を云い換えると、すべての人は犬をかく考うべきはずだという事になります。すなわち他人はどうでも自分はこうという立場を離れております。誰にでも通用するもの、結局は客観的にたしかなものという事になります。それだから犬の概念は頭の中にあるだけにもかかわらず、その価値は頭以外すなわち非我の世界に抛出《なげだ》されて始めて分るものであります。その代り例の主観的な分子は、perceptual の叙述に比べると全く欠乏して参ります。ただ吾人の知識が非我の世界において広くなったと云う事は云われます。けれども犬と云えば、すぐに一匹の犬を思い出すのが通例であるから、理窟《りくつ》からいうほど主観的分子は欠けていない場合が多いので、その点においては第一段の perceptual な叙述とつながっております。(この場合においてもこれは犬なりというのはもっとも単簡なる形式を撰《えら》んだものであります)。
今度は対《つい》の片扉なる主観の方面すなわち metaphor に移って申します。これは御承知の通り simile の変化したもので、修辞学者は大胆なる simile と評しております。あの人の心は石のようだと云う代りに、あの人の心は石だと断じ、あの人は虎だと云い切る類《たぐい》であります。第一段の比較に対して、ここでは心を石と同一視し、人を虎と同一視するのであります。だから simile よりも一層客観的不類似の点を無視した訳になります。だからその点において一層主観的態度の叙述と見傚《みな》して差支《さしつかえ》ありますまい。(その他の点は simile の所と同様の議論でありますから略します)
第三段になると妙な対ができると思います。ここになると双方共が象徴に帰してしまうのであります。本来を云うと、犬と云うのも記号で、心を石だと云うのも一種の象徴でありますから、第三段になって正式にあらわれるのはすでに前から胚胎《はいたい》しておったものであります。客観の態度から出る象徴の、もっとも面白い例は数字の記号であるものを代表する事であります。例えば x2+y2=r2[#「x2」、「y2」、「x2」はそれぞれ縦中横、すべての「2」は上付き小書き]とあればこの関係で円を叙述する事になるそうです。私の知っている数学者はこの式さえ見れば円が眼に浮ぶと云いました。恐ろしいものです。しかしこの式の意味を解しても、円が眼に浮ぶようになるのはちょっと暇がかかるだろうと思われます。それから x=A cos 2πnt は一種の振動をあらわしたり、λ=597μμ とあると光波の長さで光の色をあらわすのだそうで、まことに不可思議の至のように思われますが、いずれも長くかかって説明すべきものを、手数を省《はぶ》くために、かようにつづめたものであります。だから比較的に非常に込みいった、客観的関係が畳み込まれているには相違ありません。それがためこれらを了解する非我の世界における知識は大分広く深くなるでありましょうが、その代り我《が》自身だけに関する経験すなわち主観の部分は全くないと云っても差し支ありません。ただし x2+y2=r2[#「x2」、「y2」、「x2」はそれぞれ縦中横、すべての「2」は上付き小書き]はいかな円でも円でさえあればあらわしているのだから、取《とり》も直《なお》さず円の概念に当ります。のみならずある人はこの式を見ればすぐに一個の円が眼に浮ぶと云うのですから、この人にとっては、この公式は perceptual な叙述の代りにもなります。まことに重宝な式であります。しかしいかな数学好きの友人もこの式を見て好い心持だとか不愉快だとか申さない所をもって見ますと、主観的方面の叙述とはほとんど縁がない式のように思われます。これから翻《ひるがえ》って主観の方の象徴を述べます。これは歴史的に申すと、私の知らない仏蘭西《フランス》の詩人や何かを引用しなければなりませんので、少々迷惑致します。しかし前もって申し上げた通り、これは文学史上の御話でないのだから、相成るべくは手製の例で御勘弁を願いたいと思います。つまりは、この態度にかなっていれば、どんな例でも構わんくらいで御聞き下さい。すでにあの人の心は石のようだと云っても、あの人の心は石だと云っても、石をもって心を代表するという点から見ますと、やはり主観方面に属する一種の象徴に違ありません。けれども、それが一歩進んで、心と石を並べないで、石と云ってすぐ心を思い起させる叙述に至ったときに、私はこれを始めて第三段の主観的象徴と申したいと思います。もちろん形式はこの叙述に叶《かな》っていましてもいっこう主観の分子を含んでおらんのがありますがそれは御注意を致しておきます。例えば茶柱が来客を代表したり、嚏《くさめ》が人の噂《うわさ》を代表したりするようなものであります。これは偶然の約束から成立した象徴でありますから、ここに云う種類には属しない訳であります。もっとも器械的の象徴も馬鹿にならんもので、習慣の結果茶柱を見て来客の時のような心持になったり、嚏をして、人の噂を耳にするような気分が起る人がないとも限りません。そう云う人にはこんな象徴もやはり主観的価値のあるものであります。だから本人の気の持ちよう一つでは、仁参《にんじん》が御三どんの象徴になって瓢箪《ひょうたん》が文学士の象徴になっても、ことごとく信心がらの鰯《いわし》の頭と同じような利目《ききめ》があります。なお進むと、烏鳴《からすな》きが凶事の記号になったり、波の音が永劫《えいごう》をあらわす響と聞えたり、星の輝きが人間の運命を黙示する光りに見えたりします。こうなると漸々主観的価値が増してくるのみならず、解剖の結果全く得手勝手な象徴でないと云う事も証明ができます。このくらいならばまだ、大した事はありません。第二段第一段とつながっているくらいのものでありますが、層々展開して極端に至ると妙な現象に到着します。ちょっとその説明を致します。我々は我々の気分(主観の内容)を非我の世界から得ます。しかし非我の世界は器械的法則の平衡を待って始めて落ちつくものであります。もしこの平衡を失えばすぐに崩《くず》れてしまいます。したがって自分がこういう気分になりたいと思った時に、その気分を起してくれる非我の世界の形相が具《そなわ》っておらん事があります。つまり非我の世界を支配する器械的法則が我の気分に応じて働いてはくれません。そこでこの法則の運行と、自分の気分と合体した時、すなわち自分がかくなりたいとかねがね希望していたかのごとき気分を生ずるときの非我の形相を、常住の公式に翻訳しようとするのが我々の欲望であります。例えば時鳥《ほととぎす》平安城を筋違《すじかい》にと云う俳句があります。平安城は器械的法則の平衡を保って存在しているのだから、そうむやみに崩れてはしまいません。それすら明治の今日には見る事ができません。いわんや時鳥は早い鳥であります。またその鳥が筋違に通るところも、始終《しじゅう》はありません。おやといううちに時鳥も筋違も消えてしまいます。消えてしまう以上はその時の気分になりたくってもちょっとなれないから、平安城を筋違にという瞬間の働きをさも永久の状態のごとく、保存に便にするように纏《まと》めておきます。さてかように纏った気分が(客観的に云うと形相)だんだん頭のなかへ溜《たま》って参ると仮定します。そうしてそれが入り乱れるとします。広くなり深くなると見ます。すると一種奇妙な気分になります。この気分を構成する一部一部は、非我の世界にこれに相応する形相を発見しもしくは想像する事ができますが、この全体の気分に応じたものを客観的に拈出《ねんしゅつ》しようとするととうてい駄目であります。花でも足りない。女でも面白くない。ああでもない、こうでもない、ともがくようになります。これを形容して、よく西洋人などの云う口調を借りて申しますと、無限の憧憬《しょうけい》(infinite longing)とかになるのでしょう。私は昔し大学におった頃この字を見て何の事だか分りませんでした。それでもありがたがってふり廻していました。今でも実は分りません。私は解釈だけはできますが、本当のところ infinite longing と云うものを持っていないのだから、是非もございません。しかし私のように説明すればともかくも形容の詞《ことば》なのですから、それで差支《さしつかえ》ございますまい。とにかく、そんな形容を使わなければならない気分が起りまして、煩悶《はんもん》致します。煩悶してどうか発表したいとするが発表できない。できないでしまえばそれまででありますが、せめて不完全ながら十の一でもあらわそうとすると、是非とも象徴に訴えなければなりません。十のものを十だけあらわさないで――あらわさないと云っては間違になります。あらわせないのです。でやむをえず一だけにしてやめておく叙述であります。無論気分を気分としてあらわすなら、大に悲しいとか、少々|嬉《うれ》しいとか云うだけで、始めから表わせる表わせないの議論をする必要がないのですが、この深いような、広いような、複雑なような気分の対象を、客観的なる非我の世界に見出そうとすると十の気分を一の形相で代表させて、残る九はこの象徴を通じて思い起すようにしなければなりません。しかしながら元来これは本人すら無理な事をしているのですから、他人にはよほど通用しにくくなる訳であります。一を聞いて十を知ると云う事がありますが、一を見て十を感ずる人でなければできない事です。しかも一を見て十を感ずる、その感じかたが、云いあらわした本人と一致しているかどうかに至るとはなはだむずかしい問題であります。要するに象徴として使うものは非我の世界中のものかも知れませんが、その暗示するところは自己[#「自己」に傍点]の気分であります。要するにおれ[#「おれ」に傍点]の気分であって、非常に厳密に言うと他人の気分ではない、外物の気分では無論ない。という傾向のあるところから、この種の象徴を主観的態度の第三段に置いて、数学の公式などの対と見立てました。(シモンズの仏蘭西《フランス》の象徴派を論じた文のなかに、こんな句があります。「我々が林中の木を一本一本に叙述するの煩《はん》を避けて、自然を怖《おそ》れて逃がれんとするがごとくもてなすと、ますます自然に近くなります。また普通の俗人は日常の雑事を捉《とら》えて実在に触れていると考えておりますが、これらの煩瑣《はんさ》な事件を掃蕩《そうとう》してしまうと、ますます人間に近くなるものであります。世界に先《さきだ》って生じ、世界に後れて残るべき人間の本体に近づくものであります」この人はまたカーライルの語を引用しています。「真正の象徴は明らかにまた直接に、無限をあらわしている。無限は象徴によって有限と合体する。眼に見えるようになる。あたかも達せらるるかのごとくに見える」この二人の言葉は多少 infinite longing と同じく、いささか形容の言葉のようにも思われますが、御参考のために、ここに引いておきます)
これで主観客観の三対|併《あわ》せて、六通りの叙述の説明を済ましました。そこでこれだけ説明すればあらゆる文学書中に出て来るすべてのものを説明し尽したとはけっして申すつもりではありません。しかしながらこれだけ説明すれば、吾人の経験の取扱い方の一般は分るだろうと思います。客観主観の両態度の意味と、その態度によって、叙述の様子がだんだんに左右へ離れて行く模様が分るだろうと思います。それが普通の人の分れ具合でまた創作家の分れ具合であります。だからつまるところは創作家の態度も常人の態度も同じ事に帰着してしまいます。何だつまらない、それがどうしたんだとおっしゃる方が、あるかも知れ
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