で、この左右の扉を対と見るところに興味があるのであります。この時期における客観的叙述を私は perceptual と名づけようかと思います。すなわち前に申した酒の味よりもやや複雑な感覚的属性が纏《まと》まって一体を構成しているものを、綜合《そうごう》された一体と認めて、認めたままを叙述する意味に用いるつもりであります。例《たと》えばここに洋卓《テーブル》があると、この洋卓は堅い、黒い、ニスの臭《におい》のする、四角で足のある、云々と一々にその属性を認めて、認めた属性を綜合《そうごう》して始めて叙述が成立する訳であります。ところがかように属性を結びつけると云う事が、前に申した酒の味のときよりも一層客観性をたしかにする事だろうと思われます。と云うものは視覚、聴覚その他を単に主観的態度で取り扱っていると色はついに色で、音はどこまでも音で、この色とこの音は同一体の非我が兼ね有していると云う事実には比較的|無頓着《むとんじゃく》でいられます。したがって色も非我の属性であり、音も非我の属性であると云う以上に、この色もこの音も同一非我の属性であると綜合すれば、前よりは一段とその物の存在を確《たし》かにする意味になるから、客観的態度に重きを置いた叙述と云わねばなりません。ただ注意すべき事はこの際主観的分子が無くなったと解釈してはならんのであります。現に色を視、音を聞く以上は、この経験を綜合して我以外に抛《な》げ出すと、抛げ出さざるとに論なく、色も音も依然として、一方では主観的事実であります。
 これで私のいわゆる perceptual な叙述の意味は大概御分りになりましたろう。ところが、属性が複雑になるに従って、叙述が長たらしくなります。長たらしくなると、叙述をする当人も迷惑であり、叙述を聴くものは一度に纏《まと》めかねるようになります。したがってこの叙述を簡単にするためには、勢い叙述されべき物に類似のもので、聞く人の頭の中に、すでに纏って這入《はい》っているものを持ち出して代理をさせるのが便利になります。例えば※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]《かき》を見た事のない西洋人に※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]を説明するよりも赤茄子《あかなす》のようだと話す方が早解りがするようなものであります。もちろんこの代理になる赤茄子の考が先方の頭のなかになくては駄目で、考がある以上は、その考え次第では、第二段に述べる conceptual な叙述を予想した事になりますが、これはその場合に至ってなるべく不都合のないように説明してみましょう。とかくにこの代理のものを用いると云う事は、純粋の叙述ではない、方便であるから、あまり厳密に考えると少しは破綻《はたん》が出そうであります。しかし実際的にはほとんど、私の主意を害する事のないのみか、かえって私の考を明暸に御分らせ申す結果になりますから、こう致しておきたい。のみならず、こうしておくと、片一方の主観的の方と比較するときに大変な好都合になるのであります。
 そうすると、帰着するところは、perceptual な叙述のもっとも簡便な形式は洋卓《テーブル》は唐机《とうづくえ》のごとしとか、※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]は赤茄子のごとしとか、驢《ろ》は騾《ら》のごとしとか、すべて眼に見、耳に聞き、手に触れ、口に味わい、鼻に嗅《か》いで得たる形相《ぎょうそう》をもって叙述する事になります。その一般の形式をAはBのごとしとしておきます。
 Perceptual な叙述に対する、主観的方面の叙述は何であるかと云うと、私はちょっと名前に窮するから、しばらく在来の修辞学に用いている直喩《ちょくゆ》(simile)という語を借用致します。しかし全然従来の simile とも思われないようですから、そのつもりで聞いていただきたい。普通修辞学者の説によると、似たものを似たもので説明するんだそうです。これだけならば※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]を赤茄子で説明したり、洋卓を唐机で説明するのと別段の相違もないようです。ところが実際の例を見ると、大分これとは趣を異にしているのがあります。あの人の心は石のようだ。あの男は虎のようだ。などと云うのがあります。そこでは私は第一段の主観的叙述をあらわすに simile と云う字を借用しました。これは普通 simile の下に取り扱われている叙述のあるものが、私のいわゆる第一段の主観的叙述と同傾向を有しているからと云うだけに過ぎません。さて今申した、あの人の心は石のようだと云う例をとって、調べて見ると、心と石を並べても比較しようがありません。またあの男は虎のようだと云う例にしてもその通り、虎と人間とはとうていいっしょになりようがない。けれども別に無理とも思わないで使っています。してみるとどこか似たところがあるに違ない。その似たところを考えて見たらこの両面の叙述の差が判然するだろうと思います。人の心を石に比較するのに、比較にならんように思うのは、我々が石についての経験を、我から非我の世界に抛《な》げ出す態度、すなわち我以外に一塊の動かすべからざる石と名づくるものが存在していると見傚《みな》すからではありますまいか。すでに抛げ出されて石と名づけられたる以上、我の態度が我から非我に向って働らく以上は、石はどこまでも石で、どうしても人の心に比較されよう訳がないのであります。我々の石についての経験は堅いとか、冷たいとか、素気《そっけ》ないとかいう属性から構成されているのは無論でありますが、いやしくもこの属性が石の属性で、石の意義を明暸ならしむるものと相場がきまってしまえば、もう融通は利《き》きません。どうしても石を離れる事ができなくなります。石を離れる事ができないとすると、まるで性質の違った心を形容する訳には参りません。堅いのは石が堅いので、冷たいのもやはり石が冷たいんだから、その堅さ冷さを石から奪って、心に与える訳には参りません。しかしひとたび立場を変えて、その堅さ冷たさを石から[#「から」に傍点]経験したとすれば、自分が石を認めたんでなくって、石が自分を冒《おか》したとすれば、冷たいのは自分の冷たさで、堅いのも自分の堅さであるから、ひとたび石の経験に触れるや否や、石を離れて冷たい、堅いと云う心持ちだけになるから、いやしくもこれと同じ心持を起すものならば、移して何へでも使う事ができます。それで、あの人の心は石のようだと云う叙述が意味のあるものとなります。これは全く性質の違った比較をする場合で、むしろ極端であります。比較するものと比較されるものとの属性が一点もしくは一以上の諸点において、似ていれば似ているだけ客観的比較に近づく訳ですからして、漸々《ぜんぜん》 perceptual の叙述に縁がついて参ります。例《たと》えば先刻のあの人は虎のようだというような simile でも石と心の比較に比べると、幾分かは perceptual の方面へ向いております。なぜと云うと、虎は動物であり、人も動物であるという点において、すでに客観的価値のある比較であります。何も動物と云う概念がなくても構いません、寝るところが似ている、物を食うところが似ている、歩くところが似ている以上は、客観的価値があります。いくら皮膚が似ていなくっても、足の恰好《かっこう》が似ていなくっても、髯《ひげ》の数が似ていなくっても、似ているところがあるだけそれだけ客観的価値のある比較であります。しかしながら、もし以上の点において類似を主張するならば、よりよき類似を主張する比較物はいくらでもあるはずであります。例えばあの人は父に似ているとかまたは母のごとしとか云う方が虎のごとしと云うよりも遥《はる》かに穏当《おんとう》であります。立派な perceptual な叙述ができるはずであります。しかるにこれを棄《す》てて客観的価値のもっとも少ない[#「客観的価値のもっとも少ない」に傍点]虎を持って来たのは、すべての不類似のうちに獰猛《ねいもう》の一点を撰択[#「撰択」に傍点]してもっとも大切な類似と認めたからであります。さてこの撰択[#「撰択」に傍点]は前に云った通り我々の注意できまるので、云い換えると我々の態度で決せられるのであります。ではこの際の態度は客観か主観かと云う問題になります。獰猛《ねいもう》を客観的に虎の属性と見傚《みな》せば獰猛はついに虎の獰猛であって、どうしても虎を離れる事はできません。その代り人間の獰猛もまた客観視する事ができますからして双方共我を離れたものとして比較ができます。しかし同一経験の方向を逆にして虎より受くる獰猛、人より受くる獰猛として、双方から来る心持だけを比較すると、主観の態度であります。だからこの場合においては、両方に見る事ができて、両方共正しいのであります。しかしながら実際はどうかと云うと、個人の習慣及びその時の模様によって、変化のあるのは無論でありますが、多くの場合に、多くの人が、多く主観の方に重きを置いているように思われます。だから私はこの種の比較に用いる虎なら虎を、客観的価値のもっとも少ないものであると云う訳で、また客観的価値のある局部をも主観的態度で注意する傾向があると云う訳で、この方面の叙述と見るのであります。石の例と虎の例でも分るごとくすでに主観の程度には厚薄があります。なお進んで月が鎌のようだと云う叙述に至るとまた一歩 perceptual の方へ近づいております。(面倒だから解剖は致しません)。かようにして漸々客観的価値を増すに従って、ついには perceptual の叙述に達するのであります。
 Perceptual の叙述と、simile(私のいわゆる)との対はまずかようなものであります。前者は客観で知を主とし、後者は主観で感を主とするのが特性であります。しかし常態を申すと双方が幾分か交り合っている事は、例に因《よ》って説明した通であります。
 これから第二段の対に移ります。第二段の片扉《かたとびら》で客観態度の方を conceptual な叙述と名づけたいと思います。それから片扉の主観態度の方をやはり在来の修辞学の言葉を借りて metaphor としておきます。意味はこれから説明します。
 あるものを二度見てははああれだなと合点するのを recognition と申します。二度以上たびたび見て、やっぱりあれだなと承知するのを cognition と申します。もし一つものをたびたび見る代りに同種類の甲乙をたびたび見た上で、やはり同種類の丙《へい》に逢った時、これはこの種類の代表者もしくはその一つであると認めるのは conception の力であります。隣りの斑《ぶち》はこうであった。向うの白はこうであった。どこそこの犬はこうであったの経験が重なると、すべての犬はこうであったと纏《まとま》って参ります。それがもう一層固まると、こうであったが変じて、かくあらねばならぬとまで高じて参ります。かくあらねばならぬとなった時に、犬なら犬全体に通じての考ができます。かくあらねばならぬ考だから、本人はまだ見ぬ犬にも、いまだ生れぬ犬にもこれを適用致します。さてこの概念を抱《いだ》いて往来を歩いていると、たちまちわんと吠えられる事があります。当人はさっそくにははあ鳴いたな。これ犬なりと断じます。私はこのこれ犬なりの叙述を conceptual な叙述と申したいのであります。犬は一匹であります。耳が垂れて、尾が巻いて、わんわん云う声を出しているかも知れません。しかし単にそれだけ見たり聞いたりしただけでは、種属全体に通用する犬と云う断案は出て来ません。だからこの際における犬は、頭の中に前から存在している犬の一匹もしくは代表者であります。固《もと》より頭のなかに這入《はい》っている犬は、犬と云う名前で這入っているか、または抽象的な関係的知識になって這入っているだけだから、形を具えてはおりません、形を具えている犬はいつでも代表的な一匹の犬になってしまうのは無論であり
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