商売柄《しょうばいがら》だけに旨《うま》い事をするなと見ていると、酒の雫《しずく》が舌へ触《さわ》るか、触らないうちにぷっと吐《は》いてしまいます。そうして次の樽からまた同じように受けて、同じように舌の先へ落しては、次へ次へと移って行きます。けれども何遍同じ事を繰《く》り返《かえ》してもけっして飲まない。飲んだら好《よ》さそうなものですが、ことごとく吐き出してしまいます。そこで今度は同じ番頭が店から家《うち》へ帰って、神《かみ》さんと御取膳《おとりぜん》か何かで、晩酌をやる。すると今度は飲みますね。けっして吐き出しません。ことによると飲み足りないで、もう一本なんて、赤い手で徳久利《とくり》を握って、細君の眼の前へぶらつかせる事があるかも知れません。まずこの二た通りの酒の呑み方(もっとも一方は呑み方ではない、吐いてしまうから吐き方かも知れませんが)――吐き方なら吐き方でもよろしい。この呑み方と吐き方を比較して見ると面白い。研究と申すほどの大袈裟《おおげさ》な文字はいかがわしいが、説明のしようによると、なかなかえらく聞えるようにできますから御慰《おなぐさ》みになります。まず第一には、御店《おたな》で舐《な》めた酒と、長火鉢《ながひばち》の傍《わき》でぐびぐびやった酒とは、この番頭にとって同じ経験であります。もっとも焼酎《しょうちゅう》とベルモット、ビールと白酒《しろざけ》では同じ経験とも申されませんが、同種、同類、同価の酒を店で吐いて、家で飲んだとすれば、吐くと飲むとの相違があるだけで、舌の当りは同じ事だと見るのが順当だから、つまりこの男は同じ味覚の経験を繰り返した訳になります。ここまでは誰《だれ》が見ても同じ経験であります。それならどこまでも同じだろうかと云うと、違っています。店で試しに口へ当てて見るのは、この酒はどんな質《たち》で、どう口当りがして、売ればいくらくらいの相場で、舌触りがぴりりとして、後《あと》が淡泊《さっぱり》して、頭へぴんと答えて、灘《なだ》か、伊丹《いたみ》か、地酒《じざけ》か濁酒《どぶろく》かが分るため、言い換《かえ》れば酒の資格を鑑別するためであります。これが晩酌の方で見ると趣が違います。そりゃ時と場合によると、今日《きょう》の酒は大分善いね、一升九十銭くらいするねくらいの事は云いながら、舌をぴちゃぴちゃ鳴らすかも知れませんが、何も九十銭を研究している訳でも何でもありゃしないのです。だから九十銭が一円でもただ旨《うま》く飲めさえすりゃ結構なんです。こういう点から云うと、両方が変っています。酒の味を利用して酒の性質を知ろうというのが番頭の仕事で、酒の味を旨《うま》がって、口舌の満足を得るというのが晩酌の状態であります。双方とも同じ経験に違いない。ただその経験の処置が異なっています。言葉を換えて云うと同様の経験について、眼の付け所が違う、注意の向け方が違っている。最後にこの講演に大事な言葉を用いて申しますと、態度[#「態度」に傍点]が違っております。(ここのところが少しヴントなどと違ってるかも知れません。ヴントのような専門の大家に対して異説を立てるのははなはだ恐縮ですが、私のは、こう行かないと説明になりませんから、こうしておきます。またこうしても、実際上|差支《さしつかえ》ないと信じます)
 もう一歩進んで、この態度が違っていると云う事を説明しますと、番頭の方は酒の味を外へ抛《な》げ出す態度であります。すなわち自分の味覚をもって、自分以外のもの、(最前申した非我)の一部分を知る料に使うのであります。譬喩《ひゆ》で云うと、酒の味が舌の先から飛び出して、酒の中へ潜《ひそ》んで落ち着く方角に働くのであります。晩酌の方はこれが反対の方向に働いております。非我のうちに酒と云うものがあって、その酒が、ある因縁《いんねん》で、外から飛び込んで来て、我を冒《お》かした、もしくは我が冒されたと承知するのであります。詰《つづ》めて云うと、一は我から非我へ移る態度で、一は非我から我へ移る態度であります。一は非我が主、我が賓《ひん》という態度で、一は我が主、非我が賓と云う態度とも云えます。番頭から云うと酒の味自身が酒の属性になるのだから、これを属性的の経験とも云えましょう。晩酌から云うと酒の味が自己の幸不幸(あまり大袈裟《おおげさ》なら快不快)になるんだから感受的とでも云えましょう。洋語で云うと affective と申したら妥当だろうと思います。あるいは番頭の、自己にあらざる酒に重きを置く点から云えば客観的態度とも名づけられましょうし、晩酌の、自己に受くる刺激を、密切な自己の一部分と見傚《みな》す点から云えば、主観的とも申されましょう。または番頭の態度が非我を明らめようとする態度であるから、主知主義と云って善《よ》かろうと思いますし、晩酌の態度が、我に感ずる態度であるから、主感主義と云って善かろうと思います。(ここに云う両主義は便宜のため私が拵《こしら》えたのだから、かの心理学の一派を代表する主意説とは切り離して見ていただきたい)
 これでたいてい御分りになったろうと思いますが、なお念のために、もう少し複雑で時間の経過を含んでいる例を御話ししておきたいと考えます。かつて西洋の石版業の事を書いたものを見た事がありますが、その中に彼らの技巧は驚ろくべきものだとありました。なぜ驚ろくべきものかと申すと、彼らは原画を一目見るや否や、この色とこの色を、これだけの割合で、こう混ぜれば、この調子が出ると、すぐに呑《の》み込んでしまう。それからその通りにやる、はたしてその通りの調子が出る。まずこんな具合なんだそうです。ところが画工の方はどうかと云うと、まず腹の中で、ここへこんな調子を出して、面白味を付けようと思う。それから絵の具を交ぜる――もしイムプレショニストなら単純な色を並べて、すぐに画布へ塗り付ける。そうして思い通りの調子を出す。今この両人を比較して見ますと、ある手段に訴えて、目的(すなわち思い通りの色)に到着するのだから、そこまでは同じ事と見傚《みな》して差支《さしつかえ》ないのです。しかし両人が工夫の結果同じ色彩に到着しても、到着した時の態度は大に違うと云わなければなりません。画工の方はこの色彩を楽しむのであります。いい effect が出たと云って嬉《うれ》しがるのであります。この楽みを除いては、いろいろの工夫を積んでこの結果に達するまでの知識は無用なのであります。しかしこの知識をある意味において自得していないと、どうあってもこの結果が出せない。出せなければ楽しむ訳に参らんからやむをえずこの過程を冥々《めいめい》のうちにあるいは理論的に覚え込むのであります。しかるに、石版屋の方では、注文を受けて原画と同じような調子を出せば、それで万事が了するので、その結果が網膜《もうまく》を刺激しようが、連想を呼び起そうがいっこう構わんので、必竟《ひっきょう》ずるに彼の興味は色彩そのものに存するのであります。何と何と何がどんな割合に調合されてこの色彩が出来上ったんだなと見分けがつけばよろしいのであります。したがって彼の重んずるところは色彩から受ける楽《たのし》みよりも、いかにしてこの色彩を生じ得るかの知識もっと纏《まと》めて云えばこの色彩の知識にあると云っても無理ではありません。さてこの両人も出来上った色を経験すると云えば同じ経験をしたに違いない。ただ石版屋の方はこの経験を我から放出して、非我の属性たる色と認め、かつ属性として他の色と区別するに引き易《か》えて、画家は同一経験を、画面より我に向って反射し来《きた》ったる一種の刺激と見傚し、この色がいかに我を冒《おか》すかの点にのみ留意するのであります。だから石版屋の方を客観的態度で主知主義とし、画工の方を主観的態度で主感主義と名《なづ》けてよかろうと思います。
 まずこれで客観、主観、主知、主感の解釈ができましたが、これは極めて単純なる経験について云う事で、その経験は一の全《まった》き経験でありますから、この経験に対する注意の向け方、すなわち態度一つで、こう両面に分解はできますようなものの、この両極端の態度を取って、いずれへか片づけなければならないように人間が出来上っていると思うのは中庸《ちゅうよう》を失した議論であります。分りやすいためにこそ、こう截然《せつぜん》たる区別はつけましたが、こう明暸に離れる場合は、あらゆる場合の両端に各《おのおの》一つずつしかないと合点《がてん》しても間違ではなかろうと思います。その中間に横《よこたわ》っている多数の場合は皆この両面を兼ねているでしょう。もし兼ねているのが不都合ならば或る比例において入り交っていると云うが好いでしょう。
 そうすると私は、何だかいらざる駄弁を弄《ろう》した、独《ひと》りよがりの心理学者のようになります。それでは少々心細いから、もう少しこの両方面を研究して御話ししたいと思う。すなわちこの単純な経験において両面を区別しておく方が適当であると御納得《ごなっとく》の参るように、この両面が漸々《ぜんぜん》右と左へ分れて発展する結果ついには大変違ったものになりうると云う事を説明したいと思います。
 説明はなるべく単簡《たんかん》な方が宜《よ》ろしいから、ここに一つの物でも、人でもあるとする。この物か人は与えられたものとします。すると、以上の両態度でこれに対すると、これを叙述する方法が双方共にどう発展するかという問題であります。
 その前にちょっと御断わりをしておきますが、ここではAならAを与えてあると見て、その与えられたAをいかに叙述して行くかと云うのですから、叙述家にAを撰択する権利がない事になります。しかしながら前に我々の心を幅のある河に喩《たと》えた時、この川幅の一点だけが明暸《めいりょう》になるから、明暸になった一点だけが意識の焦点になって、他は皆|茫々《ぼうぼう》の裡《うち》に通過してしまう。そうしてその焦点は注意のもっとも強い所にできる、そうして注意はすなわち態度であると申しました。だから心の態度は撰択淘汰《せんたくとうた》の権を有しております。ここにAを与えられたとするのは、心の態度にAを撰択する権利がないと云う意味ではありません。すでに撰択せられたるAについての話であります。
 本来ならば前に申した両態度がいかなる風に、いかなる性質の焦点を作るかを論じなければならんはずであります。しかしそうすると大変複雑な問題になりますし、また撰択の態度は、すなわち撰択されたものを叙述する態度と同じ事で、双方とも傾向に相違はないと考えます。前に云った色好きの浅井先生のような人に、エストミンスター・アベーが眼に着いたとすると、先生は自分の勝手でこの寺院を撰択した訳になりますが、さてこれを叙述する段になれば(腹の中で叙述しても、口で叙述しても、または筆で叙述しても)撰択した時の態度をもって細かに局部に向うだけの事であります。ただ叙述の際にある連想だとか、ある概念だとかある記号だとかアベー以外の材料をもって来て、アベーの色を説明するかも知れませんが、説明の道具に使われる材料もまた同じ態度で撰択《せんたく》したものでありますから、つまりは同じ事だろうと思います。(もっとも例外は出て来ます。態度が中途で代る事もあり得ます。しかしこれは些細《ささい》の事として御見逃しを願いたい)
 そこでAを与えられたものと見て、これを叙述する様子がだんだんに分れて遠ざかるところだけを御話しをしたい。Aそのものは何だか分らないのですが、これを叙述する方法は主知(客観)の態度に三つ、主感(主観)の態度に三つ、そうして両方を一つずつ結びつけて対《つい》にする事ができるかと思います。当っている当っていないはもちろん大切でありますが、比較すると、よく対がとれているところに私は興味があるのでありますし、叙述となるとすでに文学の領分に、いつの間にか這入《はい》っておりますから、私の思いついたままを御参考に供します。
 第一段は叙述が、一歩客観主観の両面へ展開した時の状態
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