いるものでないと云う事だけは、さきの説明で明らかでありましょう。しかも読んで馬鹿馬鹿しくならんのは全くそのお蔭である以上は、真の分子がいかに叙述の上に大切であるかが分るでありましょう。
 客観、主観、両態度の目的と関係はほぼ説《と》きつくしましたから、これから両者の特性について少し述べたいと思います。すでに両者の関係やら目的を述べる際にも自然の勢で、不知不識《しらずしらず》の間にこの問題に触れているのはもちろんでありますから、その辺は御斟酌《ごしんしゃく》の上御聞を願います。
 さて客観的態度から出た句もしくは節、もしくは章、大きく云えば一篇――そう純粋に行くものでないのはたいてい御分りになりましたろうが、まああると仮定して――それからかの歴史的に発達した自然派写実派――これも厳密に議論したら純粋のものが、あるかどうか存じませんが、まああるとして、この二派をこの方面に編入しておいて論じます。もっとも自然派も写実派も、真本位ではないと主張されると、それまでで、やめにするだけであります。または真本位だけれど御前のいわゆる真じゃないと云われると、やっぱりやめにしなければなりません。がたいていのところで真の解釈は折合がつきそうに思いますし、かつ歴史を眼中に置かないで立てた私の議論と、全く歴史的に起った流派とを、結びつけられれば、結びつけて考えますと、大分諸君にも私にも興味があるからこう致したので、よしや自然派や写実派がこの部門から脱走致しても、私の議論はやっぱり議論になるだろうとは思われます。そこでこの部門の主要な目的は前に申すごとく真を発揮するに存する事は別に繰《く》り返《かえ》す必要もございますまい。すでに真が目的である以上は好悪《こうお》の念を取りのけなければなりません。取捨と云う事を廃《よ》さなくってはなりません。と云うと諸君はこうおっしゃるかも知れない。真が目的なら真を好むのだろう、よし好まないまでも、偽を悪《にく》む訳だろう。真を取り偽を棄《す》てるのは自然の数《すう》じゃないか。なるほどそうであります。しかし文字の上でこそ真偽はありますが、非我の世界、すなわち自然の事相には真偽はありません。昨日は雨が降った、今日は天気になった。雨が真で、天気が偽だとなると少し、天気が迷惑するように思われます。これを逆にして、それじゃ雨の方が偽だと云っても、雨の方が苦情を云うだろうと思います。だから大千世界の事実は、すでにその事実たるの点においてことごとく真なのであります。この事実は真だから好きだ、この事実は偽だから嫌《きらい》だと、どうしても取捨はできない訳であります。真偽取捨の生ずる場合は、この客観の事相を写し取った作物そのものについてこそ云われべきものであります。詳《くわ》しく云えば、傍観者がこの作物を自然そのものと比較するとき、もしくは甲の作と乙の作とを自然を標準として対照する時に始めて真偽ができ、取捨ができ、好悪が生ずるのであります。だから客観的態度で叙述した詩文には偽があるかも知れません、またあるはずであります。けれども客観的態度で向う世界には、偽は始めから存在しておらん、少なくとも真だけだとしなければ、最初から真の価値を認めないのと同様の結果に陥《おちい》ります。だからいやしくも真を本位として筆をとる以上は好悪の念を挟《はさ》む余地がない事になります。したがって取捨はないと一般に帰着致します。たとえば隣りに醜くい女がいる。見ても厭《いや》になるとおっしゃる。それはどうでも御随意でありましょうが、いくら醜くっても何でも現にいるものはいるに相違ありません。醜くいから戸籍に載せないとなった日には、区役所の調べはまるで当にならない事になります。偽りになります。気に喰わない生徒だからと云って点数表から省《はぶ》いたら、学校ほど信用のできない所はなくなるでしょう。して見ると、真を写す文字ほど公平なものはない。一視同仁の態度で、忌憚《きたん》なく容赦なく押して行くべきはずのものであります。ブルンチェルがバルザックを論じたうちにこんな句があります。自然派作家には、蛆《うじ》よりも象の方を大切だと考える権利がない。もちろん生物学上の発達から云ったら、象の方が重要な位地を占めているかも知れないが、何もこれは自然派作家が自分の意志で随意に重要にした訳ではない。――面白い句であります。(ブルンチェルのバルザック論はもちろん一人の著者についての議論でありますから系統的に理論は述べてありませんが、こういう点に関してはなはだ有益の参考書でありますから御一読を願います。この取捨のない意味なども、実はバルザック論のところどころにあるのを私が、纏《まと》めて布衍《ふえん》して行くくらいなものであります。この人は同書にまた、我《が》、浪漫派、抒情主義などと云う字を使って説明をしております。しかし二者を截然《せつぜん》区別のあるごとく論じているのが欠点かと思われます。)すでに公平無視の立場でありますから、問題の撰択《せんたく》がない。撰択がないと云うのは、意識界に落つるものがことごとく焦点になってしまうと云う訳ではありません。意識界のどの部分も比較的自由に焦点になり得ると云う意味であります。毛嫌《けぎらい》をしないと云う事であります。あるものだけに注意が向いて、その他には頑強《がんきょう》の抵抗があって、気が向けられないというような状態におらない事を指すのであります。だからもう一つ言葉を換えて云うと叙述すべき事相に自己の評価を与えて優劣の差別をつけないと云う事にもなります。例《たと》えば美くしい女と差し向いになる。――ありがたい。――女が恋の物語をする。――嬉《うれ》しい。――ところで急に女が欠伸《あくび》をする。――と急に厭《いや》になる。厭になったからと云って、そこだけ抜きにしてしまったら、抜かしただけが事実に叶《かな》わなくなる。しかし事実を書くからには、真を写すと云うからには、いたずらに好悪の念だけで欠伸を棄てべきものではないはずでありましょう。真に妨げなきものとして略すとこそ云うべきでありましょう。また別の例を挙《あ》げて見ますと、ここに一人の医者があります。ある患者の病症を確《たしか》めるために検尿《けんにょう》をやる、あるいは検便をやる。わきから見るとずいぶんきたない話であります。しかし本人は別に留意する気色もなく、熱心に検査をする。尿なり便なりの成分を確めるまでは是非やります。もし、きたないから好加減《いいかげん》にしてやめると云う医者があったらそれこそ大変であります。医者の職分を忘れたものであります。医者ばかりではありません、学者でもそうであります。動物学者が御苦労にも泥溝《どぶ》の中から一滴の水を取って来て、しきりに顕微鏡で眺めています。たくさん虫が見えるでしょう。しかしみんな裸体に違ない、のみならず時々はいかがわしい状態をするかもしれない。覗《のぞ》き込んでいる動物学者がこの有様を見て、いやこれは大変だ風紀に害があるから、もう研究をやめよう。と云う馬鹿もないでしょうが、あったらどうでしょう。非常に道徳心の高い動物学者には相違ないでしょうが、しかし真理の研究者としてはほとんど三文の価値もないと申さなければなりません。文学者もその通りかと存じます。真を目的とする以上は、真を回避するのは卑怯《ひきょう》であります。露骨に書かなければなりません。大胆に忌憚《きたん》なく筆を着けなくっては、真に対して面目のない事になります。(この点において善、美、壮に対する情操と時々衝突を起す事は文芸の哲学的基礎において述べましたし、前段においても一方が強くなると、一方が弱くなる事実を例証しましたから御記憶を願います)けれども真に向って進む人が必ずしも好悪のない人とは申されません。真に向って進む間だけ好悪の念を脱却するのであります。尿を検査する医師がいつでも尿に無頓着《むとんじゃく》とは受け取れません。無頓着ならば食卓の上に便器があっても平然として食事ができるはずであります。虫の交尾するところを研究する動物学者だって、虫以外の万事までにその態度を応用する勇気はないでしょう。ただ真を研究する時だけ他を忘れ得るほどに真に熱中するのであると解釈しなければなりません。真を写す文学者もこの医者や動物学者と同じ態度で、平生は依然として善意に拘泥《こうでい》し、美醜に頓着し、壮劣に留意する人間である事は争うべからざるの事実であります。柳は緑、花は紅、そのほかに何の奇があると云います。しかし実際はこう素気《そっけ》ない世の中ではありません。柳に舟を繋《つな》ぎたくなったり、花の下で扇を翳《かざ》したくなるのが人情であります。
 そこでこう云う事が起ります。真を描く文学は、真を究《きわ》めさえすればよろしいとなる。その結果他の情操と衝突しても、まあ好いとする。――読者の方では好いとしないかも知れませんが――しかしながら真は取捨なき事相であります。公平の叙述であります。好悪の念を離れたる描写であります。したがって褒貶《ほうへん》の私意を寓《ぐう》しては自家撞着《じかどうちゃく》の窮地に陥《おち》いります。ことに作以外の実際において、約束的にせよ善に与《くみ》し悪を忌《い》み、美を愛し、醜を嫌うものが、単に作物の上においてのみ矛《ほこ》を逆《さかさ》まにして悪を鼓吹《こすい》し、醜を奨励《しょうれい》する態度を示すのは、ただに標準を誤まるのみならず、誤まった標準を逆に使用している点において二重の自殺と云われても仕方がありますまい。書籍を買う条件で国から為替《かわせ》を取り寄せて、これを別途に支弁するからが、すでに間違っているのに、使い道もあろうに身を持ち崩《くず》すために使い果したとあっては、申し訳が立つ立たないの段ではありません、頭のよくない人だと云われても仕方があるまいと思います。幸い今日の日本には、こう云う作家は見当《みあた》りませんが、自然派の趨勢《すうせい》一つでは、向後この種の作物がいつ何時あらわれて来ないとも限りませんから、御互に用心をしたら善かろうと存じていささか愚存をつけ加えました。
 真を写す文学の特性はほぼこれで明暸《めいりょう》になりましたから、進んで善、美、壮を叙してこれに対する情操を維持しもしくは助長する文学の特性に移ります。しかしこれは前段と相待って分明になるべき関係的のものでありますから、私の申し上げべき事の影法師はすでに諸君の御認めになったはずであります。すなわち客観的態度の公平なるに対して、この態度の不公平――不公平と云うとおかしく聞えますが、好悪《こうお》に支配せられる事であります。意識の幅の一カ所だけが焦点にならなくてはならないのが原則で、この焦点は注意できまるのでありますから、もし好悪が注意に関係するとすれば、好悪のはげしいものには注意が余計集まる訳になります。したがって好悪が焦点を支配致します。さてこの意識の内容を紙へ写す際には好は好、悪《お》は悪で判然と明暸に意識された事でありますから、勢い悪の方すなわち嫌《きらい》な事、厭《いや》なもの、は避けるようになるか、もしくはこれを叙述するにしても嫌いなように写します。厭だと云う意味が分るようにして写します。最後には自己の好きなもの、面白いものを引き立てるための道具として写します。したがって叙述が評価的叙述になります。もっとも評価はあらわでない含蓄的の場合が多いかも知れませんが、ともかくも好悪《こうお》の両面を記述して、しかも公平に記述すると云う事は、あたかも冷熱の二性を写して、湯と水を同一視しろと云う注文と同じ事で、それ自身において矛盾であります。もし双方を叙する以上は勢い評価せねばならぬ事となります。のみか、たとい好きな方面だけを撰《えら》ぶにしても、撰ばれたものがことごとく一様の価値として作者の眼に映らない以上は、やはり表向きでも、内々でもいいから、評価のあらわれるようにしなければなりません。この意味で(差等をつけると云う意味)、この種の文学ではブルンチェルのいわゆる無取捨と云
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