う事が不可能になるのであります。撰択《せんたく》と云う事が、あながちに甲はとる、乙は捨てると云う意味だと思うと誤解が生じやすうございますからちょっと弁じておきました。こう云う性質の文学であるからして、この種の文学には、真を写す文学に見出し難い特徴が出て参ります。すなわち作物を通じて著者の趣味を洞察する事ができると云う便宜《べんぎ》であります。もし我々の趣味がいわゆる人格の大部を構成するものと見傚《みな》し得るならば、作を通して著者自身の面影《おもかげ》を窺《うか》がう事ができると云っても差《さ》し支《つかえ》ないでありましょう。それで著書の趣味が深厚博大であればあるほど、深厚博大の趣味があらわれる訳になりますから、えらい人がこの種の文学をかいて、えらい人の人格に感化を受けたいと云う人が出て来て、双方がぴたり合えば、深厚博大の趣味が波動的に伝って行って、一篇の著書も大いなる影響を与える事ができます。しかし個人に重きを置かない社会にあっては、ヒーローを首肯《うけが》わない世においては、自他の懸隔《けんかく》差等を無視する平等観の盛んな時代においては、崇拝畏敬の念を迷信の残り物のごとく取り扱う国柄《くにがら》においては、思うほどの功果の出て来ないのはもちろんであります。したがって著作家は立派な趣味を育成したり、高尚な嗜好《しこう》を涵養《かんよう》したり、通俗以上の気品を修得する事が不必要になって参ります。つまりは事相に対する評価を、世間が著作家に対して要求しないからであります。御前方は真相を与えればいい、評価の方はこちらで引き受けるからと云う読者ばかりになるからであります。我々の知りたいのは事実である、著者は事実を与える媒介者《ばいかいしゃ》として、重きを置く必要はあろうが、著者自身の人格や、趣味や、評価は、かえって迷惑だと云う読者ばかりになるからであります。迷惑は聞えておりますが、迷惑と感じる人が、各々自己に相当の評価的標準を具して、その標準で評価しつつ作に向うか向わないかが疑問であります。もし向わないとすると、(全然この態度を滅却《めっきゃく》する事は不可能でありますが、もし真を本位として著作に向うと、思ったよりも評価的神経は遅鈍になります)その結果は人間がだんだん不具になります。自己の趣味は――趣味のない人は全然ありませんが――同趣味のものと、接触するために、涵養《かんよう》を受けるので、また異趣味のものに逢着《ほうちゃく》するために啓発されるので、また高い趣味に引きつけられるがために、向上化するのであります。そうして世の中の運転は七分以上この趣味の発現に因《よ》るのでありますから、この趣味が孤立して立枯《たちが》れの姿になると、世の中の進行はとまります。とまらない部分は器械のように進行するのみであります。「誰さんは金が欲しいために、奥さんを離別しました」「そうか、それも一つの事実さね」「あの男は芸者を受け出すために泥棒をしたそうです」「はあ、それも一つの事実さね」「誰さんは、ちっとも約束を守らないで困りますよ」「なるほどそれも一つの事実だね」――こう事実ずくめで、ひどい奴《やつ》だとも感心な男だとも思わなかった日には、懐手《ふところで》をして、世の中を眺めているだけで、善にも移らないし、悪をも避けないし、壮挙をも企て得ないし、下劣をも恥じないし、花晨月夕《かしんげっせき》の興も尽きはてようし、夫婦としても、朋友《ほうゆう》としても、親子としても、通用しない人間になるでしょう。
ここまで来て、気がついて見ると、客観、主観両方面の文学には妙な差違が籠《こも》っております。純乎《じゅんこ》として真のみをあとづけようとする文学に在《あ》っては、人間の自由意思を否定しております。たとえばここに甲があって、ある憤《いきどお》りの結果、乙を殺す。罪を恐れて逃げる。後悔して自殺する。と仮定すると、憤りが源因で人を殺して、人を殺したのが源因で、罪を恐れるようになって、それがまた源因になって、後悔して、後悔の結果ついに自殺した事になりますから、かくのごとく層々発展して来る因果の纏綿《てんめん》は皆自然の法則によってできたものと見なければなりません。殺すのも、恐れるのも、悔ゆるのも、自殺するのも、けっして当人が勝手にやった訳ではない。殺して見ると、厭《いや》でも応でも恐れなくっちゃいられなくなり、恐れると、どんなに避けようとしても悔恨の念が生じ、悔恨の念は是非共自殺させなければやまないように逼《せま》って来る。この階段を踏んで死ななければならないような運命をもって生れた男と見傚《みな》すよりほかに致し方がなくなります。さっき用いた言葉で分るように申しますと、この男の所作《しょさ》は評価を離れたものになります。毀誉褒貶《きよほうへん》の外に立つべき所作であります。柳は緑花は紅流の死に方であります。したがって人殺しをした本人を責める訳にも、自殺をした本人を褒《ほ》める訳にも参らなくなります。もし責めるなら自然を責めなくってはなりません。褒めるにしても自然を褒めるより致し方がなくなります。人間に義務を負わせる代りに、神か何かに義務を負わせなければならなくなります。ところが情操を本位とする文学になると、好悪《こうお》があり、評価があるんだから、篇中人物の行為は自由意志で発現されたものと判じてかからなければならない。右へも行ける。左へも行ける。のに彼は右を棄《す》てて左へ行った。だから、えらいとなります。感心だとなります。彼自身の意志の働らきで、やった行為であればこそ、その行為者に全部の責任を負わせる事ができ、できるからその責任者たる当人が責められる資格もあり、また褒《ほ》められる資格もあるのであります。もし自分がやったんじゃない、因果《いんが》の法則がしでかしたのだと、たかを括《くく》っていたらば、行為そのものに善悪その他の属性を認め得るにしても、行為をあえてしたる本人には罪も徳もない訳になります。こうなって来ると人間の考が大分違って来なければなりません。自分は自然に生みつけられて、自然の命ずる通りをやるんだから、罪を犯しても、悪を働らいても仕方がない。恨《うら》んでくれるな、嫉《ねた》んで貰うまいと落ちて来る。だから大きな顔をして、不都合な事を立ちふるまうようになるでしょう。それでは御互が迷惑する。社会が崩《くず》れて来る。文学の目的が直接にこの弊《へい》を救うにあるかどうかは問題外としても情操文学がこの陥欠《かんけつ》を補う効果を有し得る事はたしかであります。しかもこの情操の供給を杜絶すれば、吾人に大切な涵養物《かんようぶつ》を奪われたると一般で日に日に痩《や》せ果《は》てるばかりであります。
両種の文学の特性は以上のごとくであります。以上のごとくでありますから、双方共大切なものであります。けっして一方ばかりあれば他方は文壇から駆逐してもよいなどと云われるような根柢の浅いものではありません。また名前こそ両種でありますから自然派と浪漫派と対立させて、畳を堅《かと》うし濠《ほり》を深こうして睨《にら》み合ってるように考えられますが、その実敵対させる事のできるのは名前だけで、内容は双方共に往ったり来たり大分入り乱れております。のみならず、あるものは見方読方ではどっちへでも編入のできるものも生ずるはずであります。だから詳《くわ》しい区別を云うと、純客観態度と純主観態度の間に無数の変化を生ずるのみならず、この変化のおのおののものと他と結びつけて雑種を作ればまた無数の第二変化が成立する訳でありますから、誰の作は自然派だとか、誰の作は浪漫派だとか、そう一概に云えたものではないでしょう。それよりも誰の作のここの所はこんな意味の浪漫的趣味で、ここの所は、こんな意味の自然派趣味だと、作物を解剖して一々指摘するのみならず、その指摘した場所の趣味までも、単に浪漫、自然の二字をもって単簡《たんかん》に律し去らないで、どのくらいの異分子が、どのくらいの割合で交ったものかを説明するようにしたら今日の弊《へい》が救われるかも知れないと思います。今日の日本の批評は山県は長州人だ大山は薩州人だというような具合に傾《かたむ》いていはしないかと考えられます。それよりも山県はこんな人、大山はこんな人と解剖しまた綜合《そうごう》する方が二元帥を評する適当の方法かと存じます。それでも長州薩州は地図の上で動かすべからざる面積を持っておりますから、まだ混雑が少ないようですが、歴史の流を沿うて漂いついた二派は名前は昔の通りですが内容は始終《しじゅう》変っておりますからなお不都合であります。だから、もし作物を本位としないで、主義を本位とするならば主義の意義を確然と定めて、そうしてその主義のもとに、その主義に叶《かな》う局部(作物《さくぶつ》の)を排列して、この主義の実例とするが適当だろうと思います。一つの作物と、一つの主義をアイデンチフワイしなければ気がすまないような考は是非共改める事に致したいと思います。これから先き文学上の作物の性質は異分子の結合でいよいよ複雑になって参りますから、幾多の変態を認めなければならないのは無論の事であります。したがって、二三の主義を終古一定のものとして、万事をこれで律せんとするのみならず、律せんとする尺度の年々に移り行くのを咎《とが》めないのは、将来出現の作家には不便宜の極で、かつ批評家の無責任を表白するものではないかと存じます。
客観、主観両面の目的、特性、必要、関係等はほぼ述べ終りました。以上は大体の御話であります。固《もと》より普遍的の論で一般に通ずる説とは信じますが、今日の日本においていずれが比較的必要かと云うと、少しは特別の問題になりますから、この点を一応調べた上、演説の局を結ぼうかと思います。情操文学の目的は情操を維持し、啓発し、また向上化するにあるとは私の前に述べた通りであります。さて与えられたる情操は与えられたる事相に附着しております。たとえば孝と云う情操は親子の関係に附着しております。ところが親子の関係は社会上複雑な源因からして、わが日本では著るしく変って参りました。この関係が変われば、孝と云う情操の評価もしだいに変らなければならない訳になります。しかるに旧来の親子関係に附着したままの評価を与えて、孝を叙述していると、在来の孝心を維持するか、もしくは不孝のものを啓発するか、または一層孝心を深くするための叙述になります。今日は孝の時代でないから親を粗末にして好いと誰も云うものはありませんが、昔のように絶対的評価をつけて叙述するのは、どうでありましょう。孝と云う字は現に勅語にもあって大切な情操には相違ございませんが、昔日のように親が絶対的権威を弄《ろう》する事を社会の有様が許さない以上は、多少その辺に注意を払った適度の評価をしなければなりますまい。もしこれを在来のままで絶対評価をもって叙述すると時勢後れになります。せっかくの目的が達せられなくなります。昔は親のために身を苦海に沈めるのを孝と云ったかも知れない。今日の我々から見ても孝かも知れないが、よし娘が拒絶したって、事柄《ことがら》が事柄だから不孝とは思いますまい。それだけ孝の評価が下落したのであります。これを西洋人に云わせると、頭からてんで想像し得られないと云います。西洋へ行くと孝の評価がまた一段下がるのであります。こういう風に評価が変って行くのはつまるところ、前に云った社会状態の変化に基《もとづ》いた結果にほかならんのでありますから、この状態の変化を知りさえすれば、旧来の評価を墨守する必要がなくなります。これを知らねばこそ煩悶《はんもん》が起ったり矛盾が起ったりして苦しむのであります。こういう時に誰か眼の明きらかな人が、この状態の変化を知[#「知」に白丸傍点]らせる、――すなわち客観的に叙述すれば、読者ははあなるほど[#「はあなるほど」に傍点]と思うので、大変な解脱《げだつ》になります。(こんな単純な場合では解脱にもなりますまいが、まあ例ですからそのつもりで御聞きを願います)そ
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